DCブランド
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なお、ファッション史などで解説される「デザイナーズブランド」と「キャラクターズブランド」の意味は下記のとおりで、講学上の意義にとどまる。
デザイナーズブランド

デザイナーブランドのイメージ作りから商品の企画、制作(多くの場合、春夏と秋冬2回のコレクション)または服の生産まで主導的に関わる。デザイナー自身は会社(大企業に属さない)の経営者または経営権を持つことはあるが、クリスチャン・ディオールグッチのように被用者の立場にあり該当しないものもある。その他、ジョルジオ・アルマーニドルチェ&ガッバーナなどがある。

日本では、経営権を持つデザイナーには、コム・デ・ギャルソンの川久保玲、アンダーカバー高橋盾が該当する。その他、イッセイ・ミヤケ三宅一生や、かつての「ヨウジ・ヤマモト」の山本耀司、「ケンゾー」の高田賢三などが該当する。現在ではドメスティックブランドと呼ばれることも多い。
キャラクターズブランド

企業の経営戦略として、企業経営者がイメージ作りから商品製作まで主導的に行う。特定のイメージ(=キャラクター)を消費者に打ち出すことが企業戦略となる。基本的に日本の業界用語であり、海外ブランドがこう呼ばれることはなく、日本でも現在はほとんど使われていない。

日本でのキャラクターズブランドとしては、かつての「PERSON'S」があげられる。「PERSON'S」ブランドの製品は現在、洋服の青山などで販売されている。なお、プレイ・コム・デ・ギャルソンやクリスチャン・ディオールなどのライセンスを日本で展開する製品は、特定のキャラクターやロゴを用いたワンポイントアイテムが主力商品となり、キャラクターブランド(キャラクターズではない)と呼ばれるが意味は異なる。
DCブランドの販売員

DCブランドの直営ショップは「ブティック」と呼ばれ、原宿や青山などの路面店のほか、ファッションビルのテナントとして出店するケースが多かった。そこで自社の服を着て接客する販売員は「ハウスマヌカン」(: house + : mannequin)という造語で呼ばれていた[4][5][6]

歌手ややが歌った1986年ヒット曲「夜霧のハウスマヌカン」では、ショートヘア刈り上げたハウスマヌカンの女性が、表参道に憧れつつも薄給の中から社販の洋服代を引かれ、昼食にシャケ弁当を食べながら頑張る姿が、演歌調のメロディでコミカルに歌われていた[7][8]。当時はそうした歌謡曲がヒットするほど、最先端ファッションに関心のない層にもDCブランドが流行として広く知られていた世相がうかがえる。
DCブランドブーム

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出典検索?: "DCブランド" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年8月)

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1970年代末、1970年代前半に散見された既製服の画一化傾向が顕在化し、業界の停滞と商機減少に対して、1960年代まで日常的であった、個々の家庭での自作服および街中の洋装店での注文服による多様性と個性とを新たな方法によって復活させ、そこに商機の活路を見出すことが図られた。この方法自体、結果論では一般的流行の反復的社会現象であるが、口コミ的な広告が特徴的であり、具体例として「an・an」や「non-no」、「MORE」、「チェックメイト」、「DANSEN(男子専科)」などファッション専門誌によって積極的に限られた数社のブランドが紹介されるという方法がとられた。この方法は功を奏し、その後「週刊女性」や「POPEYE」、「ホットドッグ・プレス」など一般誌も特集として取り上げ、全国の一般層に広まった。そして、ブームの当初は路面店やパルコなどに限られていた販売の場は、購買層からのニーズによって、伊勢丹の試行的な特設セールを経て、丸井や各百貨店でもテナントとして常設されて拡張していった。なお、これと同時にこれらDCブランドのショップの販売員が「ハウスマヌカン」という名称で取り上げられ、一時期、人気職種となったこともある。当時、ニコルなど中堅企業の新入社員向け会社説明会は中規模コンサートホールで行われるほど希望者があふれ、DCブランド企業は注目されていた。

ブームは1980年頃から1987年頃までで、特にMEN'S BIGIは、橋本治の青春大河小説『桃尻娘』やコント赤信号のネタの中でその名が挙げられていたほか、1983年ごろの絶頂期には、渋谷原宿また新宿などの繁華街で、そのロゴ入りのスタジアムジャンパーを着る若者が必ず見られるほどの流行であった。ブームのさなか、MEN'S BIGIデザイナーの菊池武夫が大手アパレルブランドのワールドに移籍した。ブーム初期の特設セールでは、混雑によって会場内の大きなワゴンが通路からズレて売り場担当が壁に挟まれたり、最盛期のセールでは、これらのブランドの店舗が入っていた丸井やパルコなどは、周辺に前日から行列ができるほどの盛況だった。しかし、1986年頃から徐々に始まったバブル景気と、それを巻き起こした急激な円高を背景にした「ジョルジオ・アルマーニ」や「ラルフ・ローレン」などの高級輸入ブランドの国内市場への本格的進出や、ボディコンブームなどによって1980年代末に終焉した。

このブームは、当初はドメスティックブランドの1つとして注目され、その後、オリエンタリズムを標榜して世界に一定の活躍の場を持つにいたった「イッセイミヤケ」や「ヨウジヤマモト」、アンチモードを展開した「コム・デ・ギャルソン」などのインターナショナルブランドと、昭和30年代以降IVYブランドとしてショップ紙袋の効用で知名度アップを図って、その後の多くのブランドのロゴ戦略の手本となった「VAN」、ヨーロピアンスタイルへの転向とリチャード・アヴェドン(Richard Avedon)など海外の著名なクリエイターを活用した広告戦略によってインターナショナルブランドの非製品的イメージ戦略の先駆けとなった「JUN」、 媒体紹介度の高い「BIGI」,「COMME CA DU MODE」など、コンセプトの異なる多くのブランドをグループ化したテナント販売戦略だった。この販売的側面は、デザイナー各人の望む方向性とは必ずしも一致せず、国内の服飾文化水準を高めようと結成されたが、その後、このブームによって大規模化され目標が変化していったTD6から脱退するデザイナーもいた。現在は、小売店でデザイナーズ&キャラクターズブランドという売り場エリア名は使われず、より高級でステータスな意味で海外メーカー各社のブランドと合わせてクリエイターズ、また、以前の床売りに対する箱売りな意味での「キャラクターズ」という総称が使われている。

このDCブランドの特徴についてオーバーシルエットがその代名詞のように言われることはあるが、当初は「イッセイミヤケ」や「コム・デ・ギャルソン」など一部のブランドのみで、大多数はブームの中?後半期であった。また、このブームが終わり次代のイタリアンファッションの流行った時期にも、オーバーシルエットは見られたため、DCブランド特有のスタイルではないことに注意する必要はある。例えば、オーバーシルエットの代表格とされる「ヨウジヤマモト」は、メンズブランド(Y's for men)の立ち上げやコラボレーションの先駆けとなっとA.A.R. Yohji Yamamoto(ダーバン-レナウンとの共同)では、タイトなシルエットにしていた。

DCブランドブームの初期に、ジャケットやボトムスの裾のロールアップ、シャツの裾出しや重ね着、ジャケットの上からのベルト絞めなど従来の常識的な着こなしの様式を破ったコーディネイトが流行った。特にシャツの裾出しは、1990年代以降現在のファッションスタイルとして定着している。

DCブランドの特徴は、これらの担い手の多くが、当時20代から30代の若い世代であったこと、また、これらのファッションと同時期に活動していたニューミュージック系の歌手やYMOなどの音楽バンドとの同期的なセールス(コラボレーション)であったことである。その多くはマンションの一室に事務所を設立して活動を始めた若手起業家たちであった。また、ファッション雑誌に、中原理恵はBIGI(例:シングル『東京ららばい』のジャケット)、庄野真代NICOLE(例:アルバム『マスカレード』のジャケット)、山本潤子はコム・デ・ギャルソン、竹内まりやY's秋川リサはBUZZ SHOPを好きなブランドであるとの記事が載せられ、単一ブランドによるトータルアイテムの斬新さと芸能人の洗練された個性をジョイントし、以前には見られないセールスを打ち出した。


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