D・マクドナルド
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デイヴィッドソン・マクドナルド
Davidson MacDonaold

個人情報
出生1836年
カナダオンタリオ州プリンスエドワード郡ブルームフィールド
死去1905年1月3日
カナダ
国籍 カナダ
居住地静岡県静岡市
配偶者アニー・クラーク
職業宣教師医師
出身校ビクトリア大学神学部トロント大学(医学博士)
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デイヴィッドソン・マクドナルド(: Davidson MacDonaold、1836年 - 1905年1月3日)は、スコットランドカナダ人カナダ・ウェスレアン・メソジスト教会明治時代日本に派遣した宣教師である。また教育者であり、医師でもあった。

宣教師として日本で静岡バンドなど多くの弟子たちを育て、彼らは静岡教会など多くの教会を設立していった。また、自らも日本年会(後の日本基督教団)議長[1] を務めた。

教育者として静岡県賤機舎の英語教師を務め、後に東洋英和学校(とうようえいわがっこう・現在の麻布中学校・高等学校)の設立に携わった。

医師として公立静岡病院(後の静岡市立静岡病院)の顧問を務め、自らも診察を行った。
生涯
幼少期・青年期

1836年 カナダオンタリオ州プリンスエドワード郡ブルームフィールドで、スコットランド人の父ジョン・マクドナルド(John MacDonald)と母サラ(Sarah MacDonald)の子として生まれる[1][2]。ビクトリア大学(英語版)神学部を卒業する[2]

1860年 カナダ・ウェスレアン・メソジスト教会の教職試補となる[3]

1864年

カナダ・ウェスレアン・メソジスト教会の教職として按手を受ける[4]。ダペンポルトならびにシートン教会の牧師となる[3]牧師の傍らトロント大学医学部に学ぶ[2][4]

アニー・クラーク(Annie Clark 1864年 - 1937年3月20日[1])と結婚[5]

1872年 トロント大学医学部を卒業[2][4]医学博士(M・D・)の学位を取得し、開業医となる[5]
日本宣教師

1872年(明治5年)カナダ・ウェスレアン・メソジスト教会(1874年にカナダ・メソジスト教会となる)、日本伝道を決議[3]

1873年(明治6年)マクドナルドはジョージ・コクランと共にカナダ・ウェスレアン・メソジスト教会より宣教師として日本に派遣される。

1873年(明治6年)6月30日 横浜に上陸[3]。G・コクランと一緒に横浜の山手に家を借り、英語と聖書を教える。その後、コクランは東京で、マクドナルドは静岡で伝道をすることになる。

1874年(明治7年)

1月12日 東京に移り築地居留地に仮寓[3]

4月8日 静岡県の私立英学塾の賤機舎のお雇い教師エドワード・ウォーレン・クラークの後任として招聘され英語教師として赴任した[4][6]。赴任後しばらくは賤機舎人見寧宅に住むことになった[7]。また、教師をする傍らで医者も務めていた。

4月13日 賤機舎で英語の授業を開始[8]

4月19日 人見寧宅で聖書講義を開始[8]

7月 駿府城内の旧クラーク邸に移りそこでバイブルクラスを開く。

9月27日 賤機舎の11名の英学生【山中笑・露木誠一・村松一・三木自道・日根野弘之・諏訪昇・栗島重清・小倉烈・佐藤重道(後の佐藤顕理)・山中常慶・杉山彦六(後の土屋彦六) 】に洗礼を授けた後、組長を露木精一、山中笑を副組長として日本メソジスト静岡教会(現・日本基督教団静岡教会)を組織した[3]

この静岡教会で洗礼を受けた人は、ほとんどが徳川静岡藩の旧幕臣であった。

マクドナルドは静岡教会を拠点にして静岡県下に伝道を開始し、清水市沼津市、浜松市藤枝市島田市川崎市焼津市掛川市の各地に多数の教会を生んだ。これらの伝道を従事した人材を静岡バンドと言う。代表的な人物に、山中笑土屋彦六山路愛山今井信郎高木壬太郎、中村正直平岩愃保がいる。静岡では山中笑が彼の通訳も務めている[5]。また、マクドナルドが静岡を去った後、賤機舎の仕事や静岡教会を引き継いだのも山中笑である[9]


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