冷戦終結まで、児玉を通じて日本の指定暴力団・韓国のヤクザなどともコネクションを持っており、暴力装置などとして使用していた[24]。また日本共産党には、岸の系列から韓国の統一協会へ関与していると主張された[25]。
冷戦終結後は双子の赤字に苦しむ連邦政府による人員や経費の削減等のため危機に直面したCIAは、日本などの友好国の経済情報などの非軍事分野での情報収集と分析を始めた。1990年(平成2年)4月には長官のウェブスターが「日本やヨーロッパ諸国の経済上の競争相手に対する情報戦略を扱う企画調整室を設けた。」と発言し、1992年(平成4年)4月には長官のゲーツが「業務の約4割、予算の2/3は経済分野に当てる。」と演説した[26]。2011年には、上級オフィサーで2000年に没したロバート・クロウリーが遺した協力者一覧「クロウリーファイル」には、船橋洋一と、「C」の節に、コロンビア大学教授のジェラルド・カーティスが掲載されている事が明らかになり、協力者の一人であると名指しされている[27]。
CIA日本支局を立ち上げたのは前身のOSS(戦略情報局)スイス支局でアレン・ダレスの部下だったポール・ブルームで、彼が来日後に最初に連絡をとったのが笠信太郎であり、以降ブルームと笠は日本の指導的知識人を糾合する目的の座談会を主催するなどして親米論調の涵養を図っていた。また、野村吉三郎(元海軍大将・駐米大使)に資金提供して海上警備隊(海上自衛隊の前身)を創設させ、野村の参院選出馬を支援している[28]。反ソ・反鳩山の緒方竹虎を首相にするための工作活動を展開するとともに、緒方の「日本版CIA構想」を支援していた[29]。正力松太郎を使って日本全土を縦断する一大反共軍事通信網を構築する構想があったとされる[30][31]。(→正力マイクロ波事件)
吉田則昭、山本武利、加藤哲郎らは2008年(平成20年)4月から9月、アメリカ国立公文書記録管理局で2005年(平成17年)に機密解除され2007年(平成19年)1月12日に一般公開されたCIA公開資料を収集し、1年間をかけてその分析に共同であたった。2009年(平成21年)7月25日に早稲田大学20世紀メディア研究所の第51回研究会で中間報告を行い、2009年(平成21年)7月26日の毎日新聞で1面2面の大きな記事として報道された[32][33][34][35][36][37]。日本での活動拠点にニュー山王ホテルがある。 第二次世界大戦中の1942年に情報調整局から改組設立された戦略情報局(オフィス・オブ・ストラテジック・サービス、OSS)がセントラル・インテリジェンス・グループ(CIG、中央情報グループ)及び政策調整局
歴史
第二次世界大戦終了後にアレン・ダレスはドイツからテオドール・ゼーフェッケなど多数のナチス将校を招聘した。またCIAのソ連など東欧での情報収集と工作活動の本格化を図った。「ベノナ」も参照
1950年代から1960年代にかけては、社会主義・共産主義化しつつあったイラン・グアテマラ・コンゴ・キューバなどに対してクーデター・要人暗殺などを含んだ工作活動を積極的に展開した。