CHAGE_and_ASKA
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来歴個人による活動内容は、Chage#来歴ASKA#来歴を参照
出会い、デビュー前

ChageとASKAの出会いは、高校時代からであり、ASKAが高校2年生のときに、父親の仕事の関係で札幌から福岡へ転校したことがきっかけである[5]:112[12]。高校3年生のとき、Chageが学園祭のために組んだバンドで練習をしていところ、隣の教室からバンド演奏にも勝るようなASKAの大きい歌声が聞こえてきたという。当時、高校内では、ASKAは剣道の腕前が優れていることで有名であったため、ChageはASKAに「お前、剣道じゃなかったのか」と声をかけたという[12]

2人とも第一経済大学(現:日本経済大学)へ入学し、在学中にASKAはChageに、ヤマハ「第15回ヤマハポピュラーソングコンテスト」への出場を提案し、別々で出場した。本コンテスト福岡大会にて、Chageがグランプリを獲得し、ASKAが最優秀歌唱賞を獲得。九州大会へ進む際に、ヤマハの九州地区担当ディレクター・秋吉恵介の勧めにより、初めてChageとASKAによるデュオが組まれた[13][12]。その後、7人編成のバンド・チャゲと飛鳥として活動を始め、1978年10月開催の「第16回ヤマハポピュラーソングコンテスト」の直前にチャゲ&飛鳥となり、「流恋情歌」で、念願の『つま恋本選会』に出場し、入賞する[14][5]:373。

1979年5月開催の『第17回ヤマハポピュラーソングコンテスト』には「ひとり咲き」で『つま恋本選会』に出場するが、またしてもグランプリ獲得とはならず、入賞となった[15][5]:373。しかし、デビューの話は進行していき、7人編成のバンドとしてではなく、ChageとASKAのみのデビューという方向で話が進んでいった。これで7人編成のバンドは解散となり、「第18回ヤマハポピュラーソングコンテスト」九州大会のゲスト出演という形で、7人編成最後のステージを行った。このライブでは、当時未完成だった楽曲「歌いつづける」を、バンドを去る5人への餞の曲として披露した[5]:114。
メジャーデビュー、レコード会社移籍

1979年8月25日に「九州から大型台風上陸! 熱い喉が衝き叫ぶ!」というキャッチコピーで、ワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)より、シングル「ひとり咲き」でデビュー[16]。1980年2月には「第16回ヤマハポピュラーソングコンテスト」で披露された「流恋情歌」が、2ndシングルとしてリリースされ、4月には、それらのシングルを収録した1stアルバム『風舞』をリリース。その後、自身初となる全国コンサートツアーが9月まで開催された[5]:374。

同年9月には、3rdシングル「万里の河」をリリース。自身初となるオリコントップ10入りを果たし、50万枚を超えるヒットとなった[5]:374,387[17]。10月には「学園祭コンサート」をスタートし[5]:374、1981年2月には、2ndアルバム『熱風』をリリース。「万里の河」のヒットもあり、オリコンアルバムチャートにて1位を獲得[18]。3月より、約60公演となるコンサートツアー「熱風」をスタート。8月には、田園コロシアムにて「THE 夏祭り '81」を開催。

10月には、5thシングル「男と女」をリリース[5]:375。1982年は、1年を通してツアーの開催など、多忙に活動を行い、シングルとアルバムは2作ずつのリリースとなった[5]:376。1983年も前年同様、コンサートツアーを積極的を開催し、中でも、9月、初めて国立代々木競技場第一体育館をコンサート会場として使用した[5]:377[注釈 1]

1984年2月、10thシングル「MOON LIGHT BLUES」をリリース。当時、「ひとり咲き」や「万里の河」の路線イメージを脱却するため、打ち込みの音を利用するサウンドとなった。しかし、所属レコード会社のワーナー・パイオニアは、否定的であったことから、2人との間に亀裂が入った。3月よりコンサート「SUPER EVENT INSIDE」をスタート[5]:378。4月には、Chageが石川優子とコラボレーションした「ふたりの愛ランド」が、45万枚を記録するヒットとなった[19]

1985年2月、12thシングル「誘惑のベルが鳴る」、13thシングル「オンリー・ロンリー」を同時リリース。3月から12月にかけてコンサートツアー「SHAKIN' NIGHT」、福岡・大阪で「THE 夏祭り'85」を開催。開催中となる10月、レコード会社をキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)に移籍。ワーナー・パイオニアとの契約が完全に終了してから、移籍先を探し、キャニオン・レコードへの移籍となった。移籍後、初作品となるベスト・アルバムStanding Ovation』を12月にリリース[5]:378。1986年2月には、キャニオン・レコード移籍後初となった14thシングル「モーニングムーン」をリリース。この年は、シングル4枚、アルバム2枚、アナログ盤限定でミニアルバム1枚をリリースし、夏には、横浜スタジアムにてコンサートを開催するなど、1年を通して精力的な活動を行った[5]:380。

1987年3月、ベスト・アルバム『SUPER BEST』をリリースし、4月より、全国55箇所で全国ツアーを開催。9月には、ASKAが「飛鳥涼」の名義で「MY Mr.LONELY HEART」をリリース[5]:382。同年、ChageとASKAは、光GENJIへの楽曲提供を行い、シングルとして「STAR LIGHT」「ガラスの十代」「パラダイス銀河」がヒットした[20]

1988年2月、20thシングル「恋人はワイン色」をリリースし、ユニット初のドラマ主題歌に起用された。本年は、シングル・アルバム共に2枚ずつリリースとなり、ASKAはソロ活動も並行して行った。5月から8月、10月から12月までは前年ツアーを開催している[5]:383。デビュー10周年を迎える1989年3月には、23rdシングル「WALK」、6月には、24thシングル「LOVE SONG」をリリース。

デビュー日の8月25日には、12thアルバム『PRIDE』をリリース。1981年の2ndアルバム『熱風』以来となるオリコンアルバムチャート1位を獲得した[18]。しかし、10月、Chageは新たなバンド・MULTI MAXを結成し、ASKAは12月に渡英したことで、CHAGE and ASKAは活動休止状態となった[5]:384。1990年4月には、Chageも渡英。ASKAと合流し、ロンドンでレコーディングを始めた。6月に2人が日本へ帰国後、25thシングル「DO YA DO」をリリースし、1981年の「万里の河」以来となるオリコントップ10入りを果たした。8月には、13thアルバム『SEE YA』をリリースし、50万枚を超える売上となった。リリース後には、本アルバムを引っ提げたツアー「SEE YA」が、1991年2月まで開催された[5]:385-387[21]
「SAY YES」「YAH YAH YAH」などのヒット

1991年1月、アルバム『SEE YA』から、26thシングル「太陽と埃の中で」がシングルカットされた。シングルカットながらも、50万枚を超える売上を記録[21][5]:387。3月から6月までは、ChageがMULTI MAXとして、ASKAがソロの活動を行った。特に、ASKAのソロ3rdシングル「はじまりはいつも雨」が、ロングヒットとなり、120万枚を記録した[22]

7月より、CHAGE and ASKAとして活動を再開し、フジテレビ系ドラマ『101回目のプロポーズ』主題歌に起用された27thシングル「SAY YES」をリリース。本楽曲は、オリコン13週連続1位を獲得し、累計280万枚以上を売り上げ、ユニット最大のヒット作品となった。9月より全国ツアー「SAY YES」を開催。

10月、14thアルバム『TREE』をリリース。当時の最高初週売上であった99万枚を記録し、累計で235万枚を記録[21][23]


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