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CDC 6600
CDC 6600は、1964年から製造された、コントロール・データ・コーポレーション (CDC) の汎用コンピュータ。一般に世界で初めて成功したスーパーコンピュータと言われており、当時の最速のマシンの三倍程度の性能を誇った。1964年にIBM 7030から世界最高速の地位を奪い、1969年に後継機 CDC 7600 にその地位を譲った(さらに1972年には CDC_Cyber
(英語版) シリーズが登場する[1])。CDCの最初の製品はエンジニアリング・リサーチ・アソシエイツ
で設計されたマシンに基づいており、シーモア・クレイはCDCに移った後にそれをアップデートするよう依頼された。Little Character と名づけられた実験的なマシンの後で、彼らは最初の商用のトランジスタベースのコンピュータの1つである CDC 1604(英語版) を発売した。それは当時、最も速いマシンのひとつでもあった。経営陣は気をよくして、ビジネス用途にもっと適合した新しいマシンのシリーズを開発する計画を立てた。例えば新しいマシンでは、文字操作命令と記録保持命令を含むことが想定された。クレイはそのようなプロジェクトに興味を持たず、1604 の50倍の性能を持つマシンを開発することを自分の目標とした。今後五年の詳細な計画案の提出を求められたとき、彼は五年間の目標を「世界で最大のコンピュータを開発する」とし、一年毎の目標を「そのための五分の一の作業」と書いて提出した。最初のCDC本社近くの新しいオフィスにチームを集めると、彼らはクレイが 1604 で使った「安い」トランジスタの高品質版の実験から作業を開始した。多くの実験の後に、ゲルマニウムトランジスタでは 1604 より高速化することは望めないと判明した。実際、経営陣が望んでいたビジネスマシンは CDC 3600 として形を成し始めており、クレイらは追い詰められていた。クレイは、解決策としてフェアチャイルドが新たに開発したシリコンベースのトランジスタを使うことにした。それはまさに市場に出たばかりで、劇的に改善されたスイッチング性能を見せていた。
この頃、CDCは創業期を脱して大企業となっていた。クレイは、彼がこっけいな管理上の雑事と考えたもののためにますますイライラさせられていた。1962年になると、3600 がリリース間近となって経営陣の希望通りに事が運ぶと、クレイと経営陣の間の緊張感は最高潮に達した。クレイはついにCDCのCEO ウィリアム・ノリスに、事態が変わらなければ会社を辞めるつもりであると告げた。ノリスは、クレイを失うには重要すぎると思い、クレイの望み通りに新しい研究所を設立する許可を与えた。
クレイは結局、彼の故郷チペワ・フォールズに戻ると決め、土地を購入し、新しい研究所を開設した。このために彼の新しいマシンの設計はかなり大きく遅れてしまったが、新しい研究所での作業が開始されると進捗は目覚しかった。そのころには新トランジスタは完璧に信頼でき、それを使って組み立てられたモジュールは最初の試験で問題なく動作することが多かった。システムアーキテクトであり「隠れた天才」と言われたジム・ソーントンとともに作業して、マシンはすぐに形を成してきた。
CDC 6600 は、全部で50台を売り上げた。そのほとんどは1号機を納入[2]したローレンス・リバモア国立研究所をはじめ核爆弾関連の研究所が購入したが、いくつかは大学のコンピューティング関係の研究室が購入した。クレイは直ちに後継機の開発に注力し、CDC 7600 として後にリリースされるマシンの性能目標を6600の10倍と定めた。後のCDC_CYBER(英語版) 70 と 170 コンピュータは CDC 6600 によく似ている。
日本では1970年に伊藤忠電子計算サービスが6600を約22億円で購入し、1966年に導入済みの3600との2台構成で1971年3月に営業運転を開始した[3]。 当時の典型的なマシンは、単一の複雑な中央処理装置を使ってシステム全体を動かす。典型的なプログラムは、まずメモリ中にデータをロードし(ライブラリを使うことが多い)、それを処理し、結果を書き出す。
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