CDグアダラハラ
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この項目では、メキシコのサッカークラブについて説明しています。スペインのサッカークラブについては「CDグアダラハラ (スペイン)」をご覧ください。

CDグアダラハラ
原語表記Club Deportivo Guadalajara S.A. de C.V.
愛称.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}Las Chivas(ラス?チーバス)(ヤギ
Las Chivas Rayadas(ラス?チーバス?ラジャーダス)(縦縞のヤギ)
El Rebano Sagrado(エル?レバーニョ?サグラード)(聖なるヤギの群れ)
Campeonisimo(絶対王者)
Rojiblancos(赤と白)
クラブカラー   
   
   
創設年1906年
所属リーグリーガMX
所属ディビジョン1部
ホームタウングアダラハラ
ホームスタジアム
エスタディオ・アクロン
収容人数48,071[1]
運営法人オムニライフ・グループ(英語版)
代表者 アマウリ・ベルガラ
監督 ヴェリコ・パウノヴィッチ
公式サイト公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

クルブ・デポルティーボ・グアダラハラ(スペイン語: Club Deportivo Guadalajara S.A. de C.V.)は、メキシコ中部、ハリスコ州の州都グアダラハラに本拠地を置くサッカークラブである。リーガMX(1部)に所属している。チーバス・グアダラハラ(スペイン語: Chivas de Guadalajara)とも呼ばれる。
概要

プリメーラ・ディビシオンで11回、コパ・メヒコで2回、カンペオン・デ・カンペオーネス(スーパーカップ)で7回、インテルリーガで1回、コパ・チャレンヘールで1回、コパ・デ・オロ・デ・オクシデンテで4回優勝しており、メキシコでもっとも大きな成功を収めたクラブの1つである。プリメーラ・ディビシオン創設時の10クラブの1つであり、リーガ・デ・アセンソ(2部)に降格したことがない。歴史的にクラブ・アメリカとライバル関係にある。創設当初を除けばメキシコ国外出身選手と契約したことが無く、メキシコ人選手だけで構成されるメキシコ唯一のクラブである。2005年と2006年、2年連続でコパ・リベルタドーレスでベスト4になった。

チームカラーの3色は、それぞれ兄弟愛(赤)、団結(白)、スポーツ(青)を象徴している。クラブのマスコットはヤギであり、スペイン語でヤギを表すチーバ(chiva)と呼ばれる。国際サッカー連盟(FIFA)によれば、チーバスはメキシコでもっとも成功を収め、もっとも人気のあるサッカークラブである[2]。2007年にグルポ・レフォルマが行った調査によると、メキシコの人口の28%(第1位)がチーバスのファンである[3]。優れた下部組織を持ち、ハビエル・エルナンデスカルロス・ベラオマール・ブラボカルロス・サルシードなど、国際舞台で活躍する選手を多く輩出している[4]メジャーリーグサッカーCDチーヴァス・USA(2014年に解散)はCDグアダラハラの兄弟チームであり、アメリカでCDグアダラハラの知名度を向上させる目的で設立された。
歴史
クラブ創設とアマチュア時代(1906年?1943年)

1904年にメキシコに到着したエドガル・エベラエルトがクラブの創設者であり、監督となった。エベラエルトの贔屓クラブはベルギーのクラブ・ブルッヘであり、クラブ・ブルッヘのユニフォームの縦縞や配色などがチーバスにも採用されて原型となっている。クラブ初の選手はフランス人だったため、クラブカラーはフランス国旗のトリコロールに由来すると主張するサッカー史家もいる。最初期のチームはメキシコ人ベルギー人フランス人選手で構成され、やがて何人かのスペイン人やイングランド人選手も加わった。選手の多くはフランシア工場の従業員であり、異なる国籍の選手間の友愛を表すCFウニオンがクラブの名称として用いられた。ヨーロッパ遠征中にエベラエルト監督は、都市名をクラブ名称に採用しているクラブはファンからより多くの支援を受けていることに気付き、1908年、住民からの支持を得るために監督と選手たちの賛成を受けてCDグアダラハラに名称変更した。また、同年にはメキシコ出身選手のみと契約することを決定した。1910年代後半にメキシコ革命が終焉し、メキシコ国内のアマチュアサッカーリーグは好況を呈した。1906年から1943年(アマチュアリーグ時代とプリメーラ・フエルサ時代)までに、1908年の初優勝を含めてチーバスは13回のリーグ優勝を果たした。またこの時代には、FCアトラスとの間でメキシコ最古のライバル意識が形成された。
プロリーグ開始後(1943年?1953年)

1943年、様々な地域のリーグが合併する形でリーガ・マジョールが設立され、プロリーグ時代が始まった。チーバスはプロリーグ化後の数年間は低迷したが、1948-49シーズンは例外的に3位となった。この年にはCFアトラスのファンからチーバス・ロカス(気の狂ったヤギ)というニックネームを与えられ、これは本来は侮蔑的な表現だが、アトラスに比べてチーバスが圧倒的な人気を誇っていたことから、クラブのニックネームとして定着した。1951-52シーズンから1954-55シーズンには2位となり、ジャ・メリートというニックネームを付けられた。1953-54シーズンにはアダルベルト・ロペスがプロリーグ化後クラブ初のリーグ得点王となった。
絶対王者(1955年?1970年)

1956-57シーズンのチーバスにはサルバドール・レジェス、ハイメ・ゴメス、イシドロ・ディアス、ホセ・ビジェガス、クレシェンシオ・グティエレス(同シーズンにリーグ得点王)などの選手たちが在籍し、メキシコサッカー史上最高のチームのひとつに数えられている。この時代のチーバスはエル・カンペオニシモ(絶対王者)と呼ばれ、このシーズンにプロリーグ化後初優勝を飾った。1950年代後半から1960年代前半にはドナルド・ルス監督やハビエル・デ・ラ・トーレ監督が指揮を執り、7回のリーグ優勝、2回のコパ・メヒコ優勝、3回の北中米カリブ海サッカー連盟(CONCACAF)主催大会(CONCACAFチャンピオンズリーグと北中米・カリブ海選手権)優勝、7回のカンペオン・デ・カンペオーネス(スーパーカップ)優勝を果たした。1958-59シーズンから1961-62シーズンにはリーグ戦で4連覇しているが、これはメキシコサッカー史上最長の連覇記録である。メキシコ国外でもチーバスの存在が認識され、1964年にはヨーロッパ遠征でFCバルセロナ(スペイン)、ヴェルダー・ブレーメン(西ドイツ)、リール(フランス)などと対戦。2勝4分4敗の成績を残した。
暗黒期と復活(1971年?1991年)

1970年代と1980年代初めは暗黒期となった。1971-72シーズンの5位、1976-77シーズンの6位となったが、1970年代には2度しかリギージャ(プレーオフ)に出場できなかった。1980-81シーズンには3位となったが、1981-82シーズンには悲惨な道路事故が起こり、選手のホセ・マルティネスが死去[5]。マルティネスの背番号22は欠番とされ、このシーズンは17位に沈んだ。

1982年には、1960年代中頃にチーバスでプレーしたアルベルト・ゲーラを監督に招聘。1982-83シーズンはレギュラーシーズンで7位となり、リギージャでは準々決勝でアトランテFCを、準決勝でライバルのクラブ・アメリカを破った。1970年代にプレーオフ形式が導入されてから初めてリギージャ決勝に進出したが、決勝ではプエブラにPK戦の末に敗れた[6]。1983-84シーズンにもリギージャ決勝に進出したが、今度はクラブ・アメリカに2試合合計4-5で敗れた。しかし、1980年代後半から1990年代前半にかけては上位に定着。ゲーラ監督が率いた1986-87シーズンにはレギュラーシーズンで1位となり、決勝でクルス・アスルを下して17年ぶり9回目のリーグ優勝を飾った。この期間にはベンハミン・ガリンド、ホセ・マヌエル・デ・ラ・トーレ(チェポ)、フェルナンド・キラルテハビエル・アギーレなどが活躍した。


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