CBS
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同年9月、39万ドルでニューヨーク市ブルックリン区にあった小さな放送局「Atlantic Broadcasting Company」を買収。WABCと名付けられ、同支局はCBSの代表的な支局となった。WABCは瞬く間に急成長しより周波数の強い860kHzでの放送を開始した(1946年にWCBSに名前を変更。周波数が880kHzになった)他の主な支局としては「KNX Los Angeles」「KCBS San Francisco」「WBBM Chicago」「WJSV Washington DC」「KMOX St Louis」「WCCO Minneapolis」などで、WCBSを含めこれらの支局は現在でも主要なCBSラジオ放送網となっている。


1928年:パラマウント・ピクチャーズがCBSの投資者になった。一時期、一部支局では名前を「パラマウント・ラジオ」としたところもあったが、パラマウントにとってこれから、という時に1929年の世界大恐慌が訪れパラマウントは倒産寸前まで追い込まれ投資から退却せざるを得なかった。1932年には全ての支局がCBSに戻った。


1930年:ニュースの提供者であったAP通信が、その業務を辞退したことによってCBSニュースは大きな打撃を受ける。ペイリーは独立した報道チームを作ることを決意し、副社長で前ニューヨークタイムズ記者のエド・クラウバーとニュース・ディレクターだったポール・ホワイトによって実行に移された。


1935年:当時まだ入社したばかりだったエドワード・R・マロードイツ軍ロンドン爆撃(ブリッツ)をレポートした「Director of Talks」はCBSの独立ニュースの先駆けとなり、マローはさらに記者団を作りCBSニュースを一気に成長させた。


1938年:CBSはアメリカで3番目の規模を持つ放送局になり2位のNBCとライバル関係に居た(現在も然り)。当時NBCのオーナーであったデヴィッド・サーノフは技術面に明るく放送技術に力を注いでいた人物であったため製作のスタッフ達は当時の一流機材で仕事をすることができ、なおかつより鮮明な音声で放送をしていた。一方ペイリーは番組の内容に力を注ぐ人物で、ミュージカルコメディショーで成長していった。CBSから出たスターにはビング・クロスビーアル・ジョルソンなどがいる。そして、両放送局はエンターテイメントの中心地カリフォルニア州ロサンゼルス市ハリウッドに同時に支局を開設。しかもNBCがサンセット・アンド・ヴァインのラジオシティに、CBSがコロムビア・スクエアに、わずか2ブロックしか離れていない場所だった。同年10月30日、オーソン・ウェルズが司会を務めていた「マーキュリー劇場」において、ニュース番組のような形で火星人によるアメリカ侵略のフィクションを放送し、人々がパニックを起こすという有名な事件が起こる(宇宙戦争 (ラジオ)を参照)。この事件でCBSは謝罪した。1994年になってから宇宙船が地球に墜落したというウソニュース番組「Without Warning」をテレビで制作したがCMを上手くいれるなどして過去の過ちは繰り返さぬように工夫した。


1940年:長らくラジオはスポンサー優勢のメディアで、番組が圧迫されることもあった。ペイリーは通常30分や1時間という単位で売られていた広告枠を分単位に短縮。以前はスポンサーが番組の内容にまで色々口を出してくることが多かったが、時間を刻んだことによりスポンサーが関与できる部分が減り(力が減り)よりオリジナルに近い番組制作ができるようになった。


1945年:上記のペイリーの政策によりCBSはジャック・ベニー、エドガー・バーゲンなどをNBCから引き抜き、放送は好調だった。


1950年:時代は徐々にラジオからテレビに移り変わっていったが、50年代後半まではまだラジオが経営主体であった。しかし、テレビがより発達していくに連れラジオのスター達はテレビに移行し始めた。同年、Burns & Allenが移動。55年に常に高視聴率だったJack Benny Showのジャック・ベニーが、57年に「Edger Bergen's Sunday Night Show」が終了した。


1956年:CBSにおいてラジオとテレビの形勢が逆転、テレビ時代の到来を告げた。


1960年:11月25日をもって昼間のレギュラー番組が終了。


1962年:9月30日、ゴールデンタイムのレギュラー番組が終了。


1972年:トークショーのパイオニア、アーサー・ゴッドフリーが退職。その後のCBSラジオは1時間ごとの報道番組、ドキュメンタリーやスポーツの実況、夜は「Mystery Theater」など比較的古いスタイルの番組を現在も続けてはいるが、どうしてもニュースに関連するような番組が多くなってしまっている。

テレビ

1939年:CBSは当時ライバル関係にあった
RCAに対抗するため1日1時間の実験的テレビ放送をニューヨーク市を中心に開始。続いてHytron Labratoriesを買収し、すぐにカラー放送を開始した。当時多くの技術特許の問題で複雑だった状況の中でRCAは連邦通信委員会に働きかけCBSとの差を開かせ一躍脚光を浴びた。DuMont社を始めとした放送局は同年に開催されたニューヨーク万博でテレビを大々的に公共化した。


1941年:7月1日連邦通信委員会は最初にRCAとニューヨークのNBC支局(WNBT)にテレビ放送を認可。同日、ニューヨークのCBS支局(WCBS)にも与えた。CBS-Hytronはカラー放送の認可を同委員会に申請したが、質の悪さで白黒放送と争えるほどの力はなく、委員会はこれを却下した。


1946年:第二次世界大戦中は事実上民放は機能していない状態で同年になってやっと元通りのプログラムに復帰した。CBSがまだこの余韻の消えないうちにRCAとDuMontは熾烈な支局開設争いを実施。
フランク・スタントンアイ・ラブ・ルーシー

1950年:NBCがテレビ業界で優勢となりCBSは新しい支局やスタジオの買収、建設に躍起になった。かつてのNBCの番組「Talent Raid」はから出た40人あまりのスターは現在CBSと契約していた。その中にはラジオからテレビに移行する番組「My Favorite Husband」の製作に乗り気ではないルシル・ボールもいた。同番組はルシルの実際の夫の生活を描写するものであったが映像が付くテレビとはその心境に差があった。会長ペイリーと社長のフランク・スタントンはわずかな希望を込めて、代わりに現在のシットコムの先駆けとなった「アイ・ラブ・ルーシー」を製作。同番組は彼女の夫デシ・アーナズも出演、ルシルの代表作にもなった。また、この頃、テレビはアメリカにおいて主要な娯楽、情報源に成長。CBSの成長率もラジオ全盛期のそれを上回った。また、同局は7?8の時間帯枠トップ10を設定しABCがCBSの放送局1位の座を奪い取った1970年中頃まで続けられた。70年代の1位からの転落の原因として「Smothers Brothers Comedy Hour」「All In The Family」など少し論争のある番組を制作したことと、会社がこの頃細分化されたことなどであった。


1960年:会長ペイリーは美術収集家でありニューヨーク近代美術館の後援者でもあった。CBSのオフィスに何かオリジナリティのあるものをという要求をされたことをうけ、同じ趣味を持っていたフランク・スタントンと共にシャレたデザインの物を使用することを決めた。1936年に買収したKNX Los Angeles西海岸本社をフランクは建築家ウィリアム・レスカーゼルに特徴的でモダンな放送局を設計してくれるよう依頼した。同じように、建築家エーロ・サーリネンにニューヨークのCBS本社のデザインを依頼した。スタントンはさまざまな場所に関わり、その中には「デスクの上に何が置かれているか?」などもあった。そして、現在のロゴである「The Unblinking Eye(瞬きしない目)」がウィリアム・ゴールデンによってデザインされた。CBS社の便箋には秘書がタイプライターで文字を打ち始める時の目安になるようにと小さな点がすでに印刷されているなど、さまざまな工夫を凝らした部分を持っていた。


1962年:1953年に初めてカラー放送を開始したのにもかかわらずRCAに先を越され、わずかな番組を除いてカラー放送はメジャーな存在ではなかった。62年にはNBCが多くのカラー番組を持っていたのにもかかわらずCBSは出遅れていた。この頃のCBSの代表的なカラー放送としては「The White House With First Lady Jackie Kennedy」があったが青の色が灰色などに比べ悪かった。


1966年:視聴者のカラー放送への強い要望を受け全ての番組をカラー放送に変更。


現在:CBSは204のVHF(超短波)とUHF(極超短波)を発信する局をアメリカ国内に持っており、現在最もアメリカで見られているテレビ局である。その視聴率を引っ張っているのはサスペンスドラマ「CSI:科学捜査班」やバラエティショー「サバイバー」などである。

その他CBS経営体制の変化

1965年:CBSは新たな投資の基盤として多角経営に乗り出した。レオ・フェンダーのフェンダーギター社を買収。フェンダーも健康上の理由から自身が同社を経営していくことが困難であったため買収に同意。しかし、65年から1985年の間にかけて同社のギターアンプの質があからさまに低下し、怒ったフェンダーギターのファン達は1985年にFMIC(Fender Music Instrument Company)を設立した。他の多角経営の試みとしては球団ニューヨーク・ヤンキースの買収が一番大きなもので、出版社、地図製作会社、おもちゃ工場など。また、映画制作会社Cinema Center Filmsの設立で映画業界にも進出を試みるも1972年には倒産し計画は頓挫した。同映画会社は現在はパラマウント・ピクチャーズの一部になっており家庭用DVDの発売やCBSのテレビ映画の製作などを行っている。


1971年:Memorex社との合弁事業で世界初のノンリニア編集機CMX-600を開発するも先進的過ぎたその性能や当時の値段で250,000ドルという値段から6台しか製造されなかった。PDP-11ミニコンピュータがベースになっており、RAMを内蔵することによってランダムアクセス性を確保しノンリニア編集を可能としていた。NTSCPALの両方に対応可であった。


1978年:ホームビデオ業界に進出。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと手を組みMGM/CBSホームビデオ(英語版)という会社を立ち上げるも1983年にMGMと契約を解消。その後20世紀フォックス(現:20世紀スタジオ)とCBS/FOXビデオ(英語版)(現:CBSホームエンターテインメント(英語版)、現:20世紀スタジオ ホーム エンターテイメント)を設立。
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