CAリーベル・プレート
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、アルゼンチンのサッカークラブについて説明しています。ウルグアイのサッカークラブについては「CAリーベル・プレート (ウルグアイ)」をご覧ください。

リーベル・プレート
River Plate

原語表記Club Atletico River Plate
愛称River (リーベル),
Los Millonarios (億万長者),
El Mas Grande (最も偉大なチーム),
La Banda (タスキ)[1],
Gallinas (ニワトリ)[2]
クラブカラー白・赤
創設年1901年
所属リーグアルゼンチンリーグ
所属ディビジョンプリメーラ・ディビシオン
ホームタウンブエノスアイレス
ホームスタジアムエスタディオ・マス・モヌメンタル
収容人数70,074[3][4]
代表者 ホルヘ・ブリト
監督 マルティン・デミチェリス
公式サイト公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

クルブ・アトレティコ・リーベル・プレート(スペイン語: Club Atletico River Plate)は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの北端ヌニェス地区を本拠地とするスポーツクラブである。ホームスタジアムは隣のベルグラーノ地区にあるエスタディオ・マス・モヌメンタル。略称はリーベル。日本では英語読みのリバー・プレートという名称が用いられることも多い。
概要

白地に左肩から右下へ伸びる赤いタスキ模様のホームゲーム用ユニフォームが特徴。通称である「リーベル」は、ラプラタ川の英語表記であるRiver Plateのリオプラテンセ・スペイン語発音[?riβe? pleit, ?rive?-]が由来である。

選手育成を重視しており、多数の有名選手を輩出している。1930年代にサッカーの歴史上最高額の移籍金で選手を獲得したことから、ロス・ミジョナリオス(億万長者)の異名を持つ[5]

プロサッカー部門は、同クラブの各部門の中でも最も際立った存在であり、現在アルゼンチンプロサッカーリーグに所属している。アルゼンチン国内における5大クラブ (los cinco grandes) のひとつに数えられており、これまでの同リーグでの優勝回数36回を有する。また国際タイトルは合計18獲得しており、その中には4度のコパ・リベルタドーレス優勝と1度のインターコンチネンタルカップが含まれる。またアマチュアであった頃にタイトルを1度獲得している。アルゼンチンで2番目に人気のあるフットボール・チームである[6]国際サッカー歴史統計連盟により、2000年度以降4度、月間世界最高サッカークラブに選出された経験も持つ[7]

ホームゲームは65,000人を超えるキャパシティを持つエル・モヌメンタルで開催されている。同じリーグに所属するボカ・ジュニアーズとの対戦は、「スーペルクラシコ」と称され、イギリスの新聞オブザーバーにて、「死ぬ前に1度は見ておかなければならない50のスポーツイベント」のひとつだとされている[8]。一方同じくイギリスの新聞ザ・サンにて、記者のアンドルー・ハイは「世界のスポーツで最も壮大なイベントのひとつ」[9] だと評している。またCAインデペンディエンテラシン・クラブCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロとも古くからライバル関係にある。

アルゼンチンのサッカーリーグがプロリーグ化した1931年から1部リーグの座を守り続けていた。2011年に初の2部降格を経験したが、2012年に1部復帰。



歴史
創設期、アマチュア・リーグ時代1908年アマチュア1部に昇格を決めたリーベル・プレート

1901年3月25日、ブエノスアイレスのラ・ボカ (La Boca) 地区にサンタ・ロサ (Santa Rosa) とラ・ロサレス (La Rosales) の2クラブが合併する形で創設された。そして複数の候補の中から現在のリーベル・プレートという名称に決定された。この名称が決定した経緯は、創設メンバーの1人ペドロ・マルティネスがボカの港を訪れた事がきっかけである。マルティネスがボカの港を訪れた際、そこで港湾労働者が積み荷用の大きな木箱を脇に置いたままにして、仕事の自由時間にサッカーをして遊んでいた。そしてその木箱の側面に“THE RIVER PLATE”という文字が印刷されているのを見た。そして、マルティスはこの文字に関心を持ち、面白いと魅力を感じたのでその言葉を仲間にチーム名として提案したところ、受け入れた[10]。RIVERの部分をスペイン語風の読み方で「リーベル」と呼び、PLATEの部分は英語読みで「プレート」と呼び、スペイン語と英語の呼び方がミックスされている名称となった。

1905年、リーベルはアマチュア3部リーグに登録して本格的にリーグ参戦した。そして4年後に1部昇格を果たした。1909年シーズンからは1部リーグに参加して8月24日にボカ・ジュニアーズと初対戦した。この試合は後にスーペルクラシコとまで呼ばれるライバル関係の幕開けの試合となった。この試合リーベルが2対1で勝利した。この時代、リーベルもボカも両チーム共、本拠地はボカ地区であった。

そして1920年シーズンにようやく初優勝を果たした。現在、名門クラブとされるリーベルであるが、アマチュア時代のリーグ優勝はこの1度のみであった。1923年、リーベル・プレートはボカ地区のスタジアムからブエノスアイレス北東のレコレタ(スペイン語版)地区へと本拠地を移転し、クラブが生まれたボカ地区を離れることを決めた。アマチュア時代の優勝は1度のみであったが、リーベルは成績上位の常連チームで、プロ化移行前の1920年代後半にはアルゼンチン・フットボール界の主役の1つと目される人気チームとなっていた。
1930年代 - プロ・リーグ時代 : "ロス・ミジョナリオス"1932年プロ化以降で初優勝を遂げたリーベル・プレート。“ロス・ミジョナリオス”。後列右から3人目フェレイラ、前列右から2人目ペウチェレ

1931年にアルゼンチンでプロ・リーグが誕生した。そして、リーベル・プレートは1931年にカルロス・ペウチェレを10000ペソで獲得した。そして更に、翌1932年にはベルナベ・フェレイラを35000ペソ(当時23000ポンド)で獲得した。このベルナベ・フェレイラ獲得に要した移籍金は当時としては巨額の移籍金で世界の移籍金の史上最高金額を更新した移籍であった。この2つの移籍をきっかけとしてリーベル・プレートはLos Millonarios(ロス・ミジョナリオス : 大富豪)というニック・ネームで呼ばれるようになった[11]。フェレイラの移籍は南米のクラブがサッカーの歴史上で唯一、世界の移籍金の史上最高金額を更新した移籍であり、またこの移籍金額はその後、世界で20年間も破られることがなかった[12]。そして、リーベルは1932年シーズン、そのベルナベ・フェレイラが43得点を挙げる大活躍をして得点王となり、プロ化以降初優勝、アマチュア時代を含めるとクラブとして2度目の優勝を果たした。そして、1935年には下部組織からホセ・マヌエル・モレノアドルフォ・ペデルネラがデビューして、1936年、1937年に優勝してリーグ連覇を果たした。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:163 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef