CAティグレ
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CAティグレ

原語表記Club Atletico Tigre
愛称El Matador (The Killer)
Azules del Norte (Northern Blues)
クラブカラー青・赤
創設年1902年
所属リーグアルゼンチンリーグ
所属ディビジョンスーペルリーガ・アルヘンティーナ
ホームタウンビクトリア(スペイン語版)
ティグレ地区
ホームスタジアムエスタディオ・ホセ・デジャヒオバンナ(スペイン語版)
収容人数26,282
代表者 エセキエル・メララーニャ
監督 ネストル・ゴロシート
公式サイト公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

クルブ・アトレティコ・ティグレ (スペイン語: Club Atletico Tigre) は、アルゼンチンブエノスアイレス州ビクトリアのティグレ地区を本拠地とするサッカークラブである。スーペルリーガ・アルヘンティーナ(1部)に所属している。
歴史プリメーラBで優勝してプリメーラ復帰を決めた1945年のチーム

1902年8月3日創設。1911年シーズンには2部リーグに登録して公式大会に初参加した。1912年にはCAベレス・サルスフィエルドを4-2で破って2部リーグ優勝を果たし、プリメーラ・ディビシオン(1部)昇格を決めた。1931年にはリーガ・アルヘンティーナが設立され、ティグレは加盟17クラブのひとつとなった。同年5月31日、エスタディオ・ビエホ・ガソメトロで行なわれた第1節のCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ戦がプロクラブとしての初試合となり、第3節のラシン・クラブ戦 (1-0) で初勝利を挙げた。14節のキルメスAC戦 (4-1) ではベルナベ・フェレイラがデビューして4得点を挙げている。9月のサン・ロレンソ戦は前半を終えて0-2と劣勢だったが、ベルナベが残り15分でハットトリックを達成して逆転勝利を飾った。ベルナベはラ・フィエラ(獰猛)というニックネームを与えられ、ティグレの伝説的な選手として語り継がれる存在となった。ベルナベは13試合で19得点を挙げ、当時世界最高額の移籍金3万5000ペソ(当時23000ポンド)でCAリーベル・プレートに移籍した。1935年にはビクトリア地区でスタジアム建設を開始したが、同年にはキルメスと揃ってセグンダ・デ・アセンソ(当時2部)降格となった。翌年の1936年にプリメーラ・ディビシオン復帰を果たし、また新スタジアムであるコローソ・デ・ビクトリアのオープンを迎えた。1937年にはフアン・マルベッシが加入した。マルベッシは1937年から1943年の間に173試合に出場して116得点を挙げ、現在でもティグレのクラブ最多得点者として名を残している。

現在でも着用されている青色と赤色の横縞のユニフォームを初めて着用したのは1940年であるが、稀に襟部分のみ赤色が使用された青色のユニフォームや、青色と赤色の縦縞のユニフォーム(サン・ロレンソと似通ったデザイン)を着用するシーズンもある。1940年のCAロサリオ・セントラル戦 (7-2) では過去最高の得点差を記録した。1943年には最重要選手のマルベッシがラシン・クラブに移籍したことから、ティグレは不振にあえぎ、再びセグンダ・デ・アセンソ降格となった。1945年シーズンにはセグンダ・デ・アセンソで28勝4分8敗の成績を残し、優勝してプリメーラ・ディビシオン復帰を決めた。128得点を挙げ、1試合平均得点は3点を超えた。1950年、クラブ史上3度目の降格を喫した。1953年シーズンは88得点44失点の好成績で優勝してプリメーラ・ディビシオン復帰を決めた。プリメーラ・ディビシオン復帰を決めた1953年のチーム

1956年にはアメリカ遠征を行なってクラブチームや代表チームと戦い、25試合で16勝4分3敗(87得点37失点)の成績を残した。もっとも大きな得点差がついた試合はハイチ代表戦 (8-1) であり、またクラブ・キングストン(ジャマイカのクラブ)には7-1、カリ盆地選抜(コロンビアの地域選抜)には6-0、デポルテス・トリマ(ペルー)には4-1で勝利した。1部と2部を行き来する時代が続いた後、1970年にはプリメーラC・メトロポリターナ(3部)降格となった。1972年には全試合中21戦で無失点・906分連続無失点の記録を樹立してプリメーラBに昇格した。1979年にも調子のよいシーズンを過ごし、フアン・カルロス・ロレンソSDの下でプリメーラ・ディビシオン復帰を果たした。このシーズンにはラシン・クラブ、サン・ロレンソ、CAインデペンディエンテなどプリメーラ・ディビシオンの強豪数クラブよりも多くの観客を集めた。1980年シーズンはボカ・ジュニアーズ戦 (2-0) やベレス・サルスフィエルド戦 (3-2) に勝利したが、最下位でプリメーラB降格となった。

1986年、アルゼンチンサッカーリーグの構成が抜本的に変更され、ティグレは新設されたプリメーラB・ナシオナル(現2部)に組み入れられた。その5年後にはプリメーラB・メトロポリターナ(現3部)に降格したが、フアン・カルロス・ケルレ監督が率いた1995年、アルヘンティーノ・デ・ロサリオを破ってプリメーラB・ナシオナル復帰を果たした。翌シーズンには再びプリメーラB・メトロポリターナ降格となったが、1998年には再びプリメーラB・ナシオナルに昇格した。2003年にはリカルド・カルーソ・ロンバルディが監督に就任し、プリメーラB・メトロポリターナのアペルトゥーラ2004ではCAプラテンセを2-0で破って優勝を決めた。キーパーのクリスティアン・カンペストリーニフェロ・カリル・オエステ戦で得点し、クラブ史上初めてリーグ戦で得点したキーパーとなった。クラウスーラ2005では無敗優勝し、プリメーラB・ナシオナルへの自動昇格を決めた。獲得可能な勝ち点120のうち93(77.50%)を獲得し、アルゼンチンサッカーリーグの新記録と各国プロリーグ史上第2位の記録(1位はイングランドのマンチェスター・ユナイテッドFC)を達成した。

アペルトゥーラ2005は3位という好成績を挙げた。


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