CAインデペンディエンテ
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この項目では、アルゼンチン・アベジャネーダのサッカークラブについて説明しています。その他の用法については「インデペンディエンテ」をご覧ください。

CAインデペンディエンテ

原語表記Club Atletico Independiente
愛称El Rojo (赤),
Diablos Rojos (赤い悪魔),
Rey de Copas (カップ戦王者)
クラブカラー赤・白
創設年1905年
所属リーグアルゼンチンリーグ
所属ディビジョンリーガ・プロフェシオナル
ホームタウンアベジャネーダ
ホームスタジアムエスタディオ・リベルタドーレス・デ・アメリカ
収容人数48,069
代表者 ネストル・グリンデッティ
監督 カルロス・テベス
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

クルブ・アトレティコ・インデペンディエンテ(スペイン語: Club Atletico Independiente)は、アルゼンチンの中東部、ブエノスアイレス州の都市アベジャネーダを本拠地とするスポーツクラブである。中でもサッカークラブが有名である。サッカーの他に、バスケットボール、チェス、フィールドホッケー、体操、武道、ローラースケート、水泳、テニス、バレーボール、ウォーターポロの競技チームも所有している[1]
概要

ボカ・ジュニアーズCAリーベル・プレートラシン・クラブCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロとともにアルゼンチンのビッグ5に位置づけられている。同じアベジャネーダを本拠地とするラシン・クラブとの対戦はエル・クラシコ・デ・アベジャネーダ(アベジャネーダ・ダービー)として盛り上がりを見せる。CAリーベル・プレート、ボカ・ジュニアーズに続いてアルゼンチン3位のリーグ優勝16度を誇り、ボカ・ジュニアーズとともにプリメーラB・ナシオナル(2部)に降格したことのない2クラブのひとつであったが、2013年にクラブ史上初の降格となる。
国際大会では16のタイトルを獲得しており、南米クラブチーム王者を決めるコパ・リベルタドーレスでは1972年から1975年大会までの4大会連続優勝を含む史上最多の7度の優勝を果たしている。これに加え、3度のコパ・インテラメリカーナ優勝、2度のスーペルコパ・スダメリカーナ優勝、1度のレコパ・スダメリカーナ優勝、2度のインターコンチネンタルカップ優勝(出場6度)、1度のコパ・スダメリカーナ優勝を果たしている。このように数多くの国際タイトルを所有していることから、レイ・デ・コパス(カップ戦の王者)というニックネームを持っている。2006年にイタリアのACミランに抜かれるまで、30年以上という長期に渡り、国際タイトルの獲得数、世界1位を維持していた。
歴史
創設期1909年のチーム

1904年、ブエノスアイレス州モンセラートにある店の従業員がマイプFCを設立。多くの若い従業員は試合観戦しか許されず、プレーすることはできなかったため、若い従業員たちはクラブの正面にあるバルに集って8月4日に新クラブ設立を決定した。クラブ名称には「(マイプFCからの)独立」を意味するインデペンディエンテを用い、1905年1月1日に公式にインデペンディエンテFCが創設された[2]。若者集団のリーダーであったロセンド・デヒオルヒオが暫定的な会長に就任し、彼の家族が住んでいた小さなアパートがクラブの本部として使用された[2]。創設当初はモンテセラートに本拠地があったが、1907年にアベジャネーダに移転した[2]。当初は白色(身頃)と青色(袖)のシャツを着ていたが、1908年に赤色(身頃)と白色(袖)のシャツに変更された[2]。アルゼンチン遠征に来ていたノッティンガム・フォレストFC(イングランド)のユニフォームカラ―にランゴーネ会長が感銘を受けたからだとされているが[2]、創設メンバーの何人かが社会主義運動に関わっていたのも赤色が採用された理由のひとつである。同年5月10日のCAバンフィエルド戦で初めて赤色のユニフォームを着用して9-2で勝利し、クラブ名称もインデペンディエンテFCからCAインデペンディエンテに変更された。オリジナルのユニフォームはアウェー用として使用されている。
アマチュアリーグ時代コパ・デ・コンペテンシアで優勝した1925年のチーム

1910年にはラ・クルセシータというスタジアムが建設され、1923年に焼失するまで使用された。リーグ分割によってCAリーベル・プレートボカ・ジュニアーズが異なるリーグでプレーし、対戦の機会が少なかったため、アベジャネーダ・ダービーはスーペルクラシコを凌ぎ、アルゼンチンで最も人気のある対戦であった。アマチュア時代には1922年(プリメーラでの初戴冠)と1926年(無敗優勝)にリーグ優勝を果たした。当時の著名選手にはマヌエル・セオアネ(アマチュア時代の最多得点者)やライムンド・オルシなどがいた。1926年シーズン中には初めてディアブロス・ロホス(赤い悪魔)という愛称で呼ばれた。この愛称はクリティカ紙のウーゴ・マリーニというジャーナリストによって付けられたものである[注釈 1]。マリーニは足元が巧みな選手たちで形成されたインデペンディエンテの前線について「悪魔に取り憑かれているよう(なくらい素晴らしい)」と述べた。この愛称はサポーターにも受け入れられ、クラブの最も一般的な愛称となった。プロ化後初優勝を飾った1938年のチーム

1924年から1926年にはコパ・コンペテンシア・アソシアシオン・アマテールスで3連覇を果たした。1927年にはカンペオナート・ポルテーニョで決勝に進出し、1928年にはクラブにとって7つ目(そして最後の)となるスタジアムの建設が開始された。木造とは違ってコンクリート造は火に強いため、監督たちがコンクリート造を選択したとされている。1928年3月4日、南米初(世界では2番目)となるコンクリート造のスタジアムが公式にオープンした。その形状から、すぐにジャーナリストがラ・ドブレ・ビセーラ(2枚のひさし)という愛称を付けた。
プロリーグ化ナシオナル1967で優勝したチーム

アルゼンチンサッカーリーグは1931年にプロ化された。プロ化後初の試合はAAアルヘンティノス・ジュニアーズ戦 (1-1) であり、翌節のCAウラカン戦 (3-1) で初勝利を挙げた。プロ化後初のアベジャネーダ・ダービーはシーズン終盤に行われたが、ラシン・クラブに4-7で敗れた。1937年にクラブ史上最高の選手のひとりとなるビセンテ・デ・ラ・マタが加入すると、彼の活躍によって1938年のリーグ戦で初優勝し、1939年に2連覇を果たした。1930年代から1940年代前半に在籍したパラグアイ人のアルセニオ・エリコは公式戦通算295得点を挙げ、アルゼンチンリーグの通算最多得点者として現在も名前が残っている。エリコは1シーズンに平均40得点を挙げ、1937年、1938年、1939年に得点王に輝いた。インデペンディエンテはアルゼンチンとウルグアイのリーグ王者が戦うコパ・リカルド・アルダオにも出場し、1938年はCAペニャロールを破り、1939年にはナシオナルを破って優勝している。この大会の優勝クラブはカンペオン・リオプラテンセ(ラ・プラタ川王者)と呼ばれた。
1940年代と1950年代

1940年代にはカポーテというニックネームで呼ばれたマタが偉大な選手となり、彼の功績を称えた同名のタンゴが創作された。マヌエル・ロペスが作詞し、フアン・サンチェス・ゴリオが作曲している。また、この時代には大勝を何度も記録している。エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタに8-1で勝利し、CAベレス・サルスフィエルドに5-0で勝利し、ボカ・ジュニアーズに7-1で勝利し、ラシンに7-0で勝利した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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