C62形
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そして1971年(昭和46年)、最後まで重連運転として残った急行「ニセコ」1往復(下り3号、上り1号)が7月18日8月22日9月15日の3回に分けて実施された三重連運転を最後にDD51形ディーゼル機関車に置き換えられ[注 25]、ついに終焉を迎えた[1]。最終日となった9月15日の牽引機は先頭からC62 2・3・16であった[1]。これに伴い、国鉄から蒸気機関車牽引の定期急行列車が消滅した[注 26]

急行「ニセコ」運用から退いた後、C62 15・16が同年11月24日付で廃車・解体された[3]。C62 2は長万部 - 小樽間の普通列車運用に充当された後[1]、翌1972年(昭和47年)10月10日付で梅小路機関区に転属し、同機関区に併設された梅小路蒸気機関車館にて動態保存されることとなった[注 27][1][3]。C62 3は一時休車を経て、1973年(昭和48年)2月から函館本線の長万部 - 小樽間の臨時普通列車を牽引したが[1]、長万部 - 小樽間の完全無煙化により同年10月1日付で第一種休車となり、1976年(昭和51年)3月19日付で正式に除籍された[3]。C62 3は、小樽市の北海道鉄道記念館にて静態保存された[1]
その他

以上のようにC62形は優等列車を中心に第一線で華々しく運用されたが、お召し列車を牽引したことは一度もないまま終わっている。特に東海道本線山陽本線系統では、現場の信頼も極めて高かったC59形がその任務にあたった。そのため、お召し列車牽引機としての特別整備を実施された実績は存在しない。ただし、特急「つばめ」がお召し列車の先導列車となった際に、その牽引機がお召し列車牽引機に準じた特別整備を施されたケース(C62 25・30)は存在している。

乗務員の間では、太いボイラーが運転台一杯に迫っていることに伴う狭さや、夏季の温度上昇など、運転台内部に余裕のあったC53形やC59形と比較すると、作業環境としては必ずしも良いとはいえない評価がなされている一方、C62形で採用された2軸従台車による高速安定性と振動の少なさ、自動給炭機による焚火労力の低減、D52形譲りの大形ボイラーと燃焼室がもたらした圧倒的な高出力による運転上の余裕など労働環境は好評価されている。

鷹取工場職員(当時)の今村潔によると、重心が高くなって安定が悪いのではと心配する意見もあったが、試運転をしてみると不安を一蹴する好成績だった、という[27]
保存機

現存5両のうち3両が2016年4月に開館した京都鉄道博物館に所在する。うち、同館のC62 2は動態保存で車籍も有するが、法定検査を受けていないため、本線での運転は不可能である。
C62 1C62 1

1948年(昭和23年)1月17日に日立製作所笠戸工場で落成[3]。1月23日付で広島第二機関区に新製配置された後、1950年(昭和25年)8月23日に宮原機関区に転属し、東海道本線で特急「つばめ」・「はと」などを牽引した[3]。1957年(昭和32年)7月10日に再び広島第二機関区に転属されると、特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」・「さくら」などを中心に牽引し[3]下関電化後も岩徳線直通など山陽本線列車の一部に充当されたが[3]1966年(昭和41年)9月30日に急行「音戸」を牽引して広島 - 下関間を往復したのが最後の運用となり、同年10月1日付で第一種休車となった[10][28]1967年(昭和42年)4月1日に広島機関区へ移り、同年6月1日に第二種休車を経て、同年7月14日付で除籍となった(中国支達1460号)[3]

除籍後は解体が予定されたが国鉄本社からその処分を保留する指示が出され[28]、保存を見越して広島機関区、次いで小郡機関区において長らく保管され続け、1976年(昭和51年)3月に広島鉄道学園(国鉄職員の研修施設)敷地内で静態保存されるとともに、同年3月31日付で準鉄道記念物に指定された[29]。しかし、国鉄改革の際に同学園が閉鎖され、しばらく同敷地内に放置されていたが、1994年平成6年)に梅小路蒸気機関車館に移されており、標準では引掛け式となる標識灯を端梁に埋め込むなど、山陽本線で運用されていたC62形独特の改造を施された姿を今に伝えている。

2013年(平成25年)7月20日にはイベント「銀河鉄道999とC62形蒸気機関車」にて、漫画「銀河鉄道999」の999号と同形式であるC62 1のデフレクタに「999」のエンブレムとヘッドマークの取り付け、同年9月1日まで蒸気機関車館扇形車庫11番線に展示された。梅小路蒸気機関車館を拡張・改称した京都鉄道博物館で引き続き保存展示されている。

2023年(令和5年)12月9日から2024年(令和6年)2月4日までイベント銀河鉄道999展にて漫画版銀河鉄道999の装飾の再現がされた。上記の記述と同じくエンブレムとヘッドマークに999の文字が取り付けられた。
C62 2

1948年(昭和23年)5月20日に日立製作所笠戸工場で落成[3]。C62 3・4とともに自動給炭機の試用機として製造され、6月14日付で糸崎機関区に新製配置された[3]。1950年(昭和25年)8月12日に宮原機関区へ転属。翌1951年(昭和26年)に鷹取工場へ入場した際に、当時行われていた模範整備運動と宮原機関区からの要望で、除煙板にステンレス製の「つばめマーク」が取り付けられた[3]ことから、「スワローエンゼル」の愛称で親しまれる。また運転席キャブ及びデフレクタの誘導員用手すりにステンレス鋼が使用されている。宮原所属時代にはランボードにステンレス鋼の飾り帯が使用されているときもあったが、後の渡道に際して撤去された。

東海道本線の全線電化によって余剰となり、1956年(昭和31年)11月25日から1957年(昭和32年)1月8日まで保留車として吹田機関区へ留置された後[3]、1月21日に北海道へ渡る[3]。苗穂工場で軽軸重形への改造工事が施工されて1957年(昭和32年)2月7日付で小樽築港機関区へ転属[3]。函館 - 小樽間の急行列車牽引などに充当され[3]、重連運転では専ら前部補助機関車の運用に優先的に使用された。1970年(昭和45年)7月28日から8月6日にかけ苗穂工場で行われた全般検査に際し、当時はこれがC62形最後の全般検査になるとされていたこと、また過去の特急牽引時代を模す意味でも記念としてランボードの白線塗装が行われた。白線は当初工場出場後に消去する予定だったがそのまま小樽築港機関区へ回送、引渡しを行い[30]、梅小路蒸気機関車館収蔵後もランボードの白線は残されている[31]

1972年(昭和47年)10月10日に、鉄道100年を記念して設立された梅小路蒸気機関車館に動態保存され、それ以降国鉄→西日本旅客鉄道(JR西日本)梅小路運転区に車籍を有している。蒸気機関車館の開館当初、1972年(昭和47年)10月14日・10月22日・11月5日・11月19日、1973年(昭和48年)3月11日・4月22日には京都 - 姫路間で臨時列車「SL白鷺号」を牽引している。しかし同機は、蒸気機関車館保存後の1974年(昭和49年)8月から9月にかけ国鉄長野工場で全般検査が実施された後、「SL白鷺号」などの本線自力走行や、本線走行に必要な検査は今日に至るまで一度も実施されていない。このため法令上、構内展示走行のみ可能な状態である。梅小路蒸気機関車館においては他の動態保存機とともに「SLスチーム号」としての保存運転に使用されていた。現役時代には、宮原時代と小樽築港時代の二度にわたり重油併燃装置が搭載されたが[3]、動態保存への移行にあたって撤去された。

なお、梅小路蒸気機関車館建設時の保存車両選定では、同一形式が複数残存した場合は原則的には最若番機あるいは最終号機を最有力候補としていた。C62形はC62 1が存在したため当初は候補に挙げられていたが、C62 2の人気には逆らえずに変更となった模様である[29]

1997年平成9年)9月11日午前10時、京都駅の新駅ビル落成式典にあたって、駅構内においてグランドオープンを告げる汽笛を鳴り響かせた。式典後梅小路へはEF65形の牽引により回送されたが、その際1番線ホーム(現・0番線ホーム)で20分ほど機回しを行い、新駅ビルの中央改札口の正面で、蒸気と煙を上げるC62形が展示されるという演出がなされた。

C62 2は東日本旅客鉄道(JR東日本)への管外貸出が2回ある。1度目は鉄道の日制定および大宮工場開設100周年記念として、1994年(平成6年)10月9日に行われた大宮工場の公開イベント「新旧つばめの出会うとき」で、JR東日本が保有するEF55 1およびEF58 93九州旅客鉄道(JR九州)から借り入れた787系電車とともに展示された。


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