C62形
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注釈^ ただし、従台車の支点位置は工場出荷時に決定された位置から変更不可のため、途中での改造時には従台車の新製品あるいは仕様が一致する廃車発生品への交換が必要だった。
^ 動軸の軸重を3軸合計で48.23 tから44.59 tへ引き下げ。車両重量そのものはほとんど変化していないため、その分先台車と従台車の負担が増大することになる。
^ C62 1の初期の記録写真では、その後の改良型リンク式とは引棒の取り付き方が異なっている。
^ D52形2両の状態不良のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出した。乙缶と丙缶の2種類を利用。なお、乙缶、丙缶のいずれも戦時設計の低規格ボイラーである。後に戦時製造の甲缶を含めてほとんどのボイラーが鷹取工場などの国鉄工場で新製された甲缶に取り替えられた。
^ いずれも1948年(昭和23年)11月上旬までに使用開始された実績のある機体である[3]
^ 浜松工場では工場出場後に慣らし運転なしに即座に急客牽引に充てていたが、主連棒のビッグエンドのメタルを1/1000のテーパーに仕上げていたために可能となったもので、鷹取工場はそれを知って真似を諦めた。
^ 9月30日に下関駅を出る上り列車牽引に充当させ、広島駅到着後そのまま転属した。
^ 1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正後は寝台車・食堂車のみの10両編成 (365 t) が基本となっていた。
^ さらに「安芸」は1968年12月から糸崎以西で機関車にヘッドマークを取り付けたが、広島到着後のマーク付け替え作業を省略するために1969年3月以降は下り「安芸」を牽引した機関車がマークを外さず上り「安芸」を牽引して折り返すよう運用変更を実施している。
^ 呉線の蒸気機関車さよなら列車となった「安芸」の最終列車はC59形牽引となり、C62形は普通列車と荷物列車のみの最終運用となった。
^ 試験的に東北本線の白河以北へ入線したことがあったが、勾配の連続する郡山 - 福島間を中心に空転が頻発したこともあり、本格的に運用されることはなかった。
^ 「はつかり」運用で炭水車への給水は水戸と平で停車中に行われたが、石炭の補給は行わないため。
^ 仙台機関区でも転車台が老朽化した一因にC62形の存在が挙げられたほどであった。
^ 蒸気・ディーゼル時代の「はつかり」も同じ理由から常磐線経由とされていた。
^ 上野寄りからカニ21形 - ナハネ20形 - ナロ20形 - ナハネフ23形 - ナロネ21形 - ナロネ21形 - ナロネ21形 - ナシ20形 - ナハネ21形 - ナロネ21形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネフ23形の15両。換算39.5両で、平 - 仙台間はC62 22が牽引した。
^ 当時は山陽本線の寝台特急牽引でC62形の限界性能発揮を必要とする運用が継続しており、好調機は可能な限りそちらの運用へ優先的に充当する必要があった。
^ 後の共通追加工事として、1967年(昭和42年)には小樽 - 滝川間交流電化対策として副燈(シールドビーム)設置。1968年(昭和43年)からは主燈とナンバープレートの間に電池式の非常燈が設置され、一時は三つ目スタイルとなっていたが、こちらは短期間で撤去されている。
^ ただし、『ドキュメント・感動の所在地―忘れえぬ鉄道情景 (3) (Neko mook (386) ) 』(2002年ネコ・パブリッシング)pp.268 - 269によると、1970年3月の記録として、急行「ニセコ」(104レ)でC62 2が本務機、C62 3が前補機で運用され、C62 2は函館駅まで直行。翌日の急行「ニセコ」(103レ)で長万部駅の1つ函館側の中ノ沢駅を単機で通過。翌日の急行「ニセコ」(104レ)は前後を入れ替え(同記事には、「補機は前日の下り本務機が担当するように運用を入れ替える」と記載)、C62 2+3の重連で運用されたという記載がある。
^ 1964年(昭和39年)6月1日に軍川駅から大沼駅に改称。同時に従来の大沼駅が大沼公園駅に改称。
^ 2016年平成28年)3月26日に渡島大野駅から新函館北斗駅に改称。
^ 1987年(昭和62年)4月1日に信号場から旅客駅に変更。
^ 藤城線開通後、仁山駅を通る従来線を経由する下り列車は、一部の普通列車のみとなっていたが、2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線開業後は一部を除いて従来線を経由する経路に戻された。
^ 急行「石北」の前身は同じ区間で運転されていた夜行準急「はまなす」。1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正(ヨンサントオ)以降の札幌 - 網走間の夜行急行「大雪6・6号」→ 1978年(昭和53年)10月1日ダイヤ改正以降の夜行急行「大雪5・6号」→ 1980年代中期以降に夜行1往復のみとなった急行「大雪」→ 2006年(平成18年)3月18日ダイヤ改正で臨時列車となった夜行特急オホーツク9・10号」の母体となった列車である。
^ 1970年(昭和45年)当時、全般検査ではC62形の場合約1,000万円の経費(人件費約700万円、資材費約220万円)が必要なのに対し、余剰車の転用・改造では100万円程度[1]。ちょうどこの頃、会計検査院より「蒸気機関車を一方で廃車しながら一方では経費を掛けて修繕を行なっている」と経費上問題ありと指摘され、広域の転属・配置換えが行なわれた理由となっている。
^ DD51形への置き換えによって、高速運転する海線で、わずか140kmあまりの区間ながらも、約30分ほど所要時分の短縮が実現した。これは、動輪周出力で同等ながらも機関車自体の重量が約50t軽くなったこと、粘着引張力が1.3倍になり低速での加速力を増したことなどによる。
^ ただし、1973年10月から1974年4月まで日豊本線宮崎 - 都城間で下り「日南3号」にてC57形による蒸気機関車牽引の急行列車が復活している。
^ 本来は現存最若番車を保存する方針だったが、「つばめマーク」による人気から、C62形ではC62 1が現存していたにもかかわらず、C62 2が選定された。
^ 蒸気機関車の形式名にはハイフンはないが、番組の題名には "C-62" とハイフンが入る誤記がある。

出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp 『追憶のSLC62』 pp.100 - 104

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