C-T-R
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会長はジョージ・ウィンスロップ・フェアチャイルドであり、1906年以来アメリカ合衆国議会下院の議員であったが、経営に積極的に参加することは期待されていなかった。しかし、最初の社長がわずか1か月で辞任したとき、フェアチャイルドが引き継いで、1912年までC-T-Rを率いた。1912年からはインターナショナル・タイムレコーディング子会社の前CEOであるフランク・N・フリントがC-T-Rへ来て、1930年に引退するまでC-T-R(および後のIBM)のCEOであった。[16][17]51歳のハーマン・ホレリスは、C-T-Rの取り締まり会に参加し、10年後に退職するまで顧問エンジニアを務めた[18]
ワトソンの初期の時代

トーマス・J・ワトソン・シニアは、他の29人のNCR職員とともに、1913年に、中古NCRキャッシュレジスターの売業者を廃業に追い込む作戦計画・実行における役割について、さまざまな反トラスト法違反で有罪判決を受けた(NCR#拡大期を参照)。ワトソン自身が書き残していたものが、彼に対する証拠として使用されたので、ワトソンにその後書き物をほとんど残さないという教訓を得た。1914年、NCRから解雇され、将来を脅かす禁固刑を心配して、トーマス・J・ワトソンは、NCRと似た仕事を見つけるための援助を求めて、主要な投資家であるフリントに連絡した。自身が明らかに危険な状況にもかかわらず、彼は自分が望んでいた仕事のタイプに関してまだ非常に明確であって、彼はすでにいくつかの申し出を断っていた。彼はビジネスを自分で管理し、利益の一部を獲得できることを望んでいた。フリントは彼にC-T-Rでの仕事を提供した。

前述のように、フリントは彼が信頼する偉大な推進者であり、おそらくワトソンの差し迫った刑期刑についてはあまり心配していなかった。 C-T-R取締役会の他のメンバーは楽観的ではなく、彼が刑務所にいる間に誰が会社を経営するか尋ねた。その結果、彼らは彼にゼネラルマネージャーの称号を与えただけであった[19]。ワトソンがC-T-Rに11か月滞在した後、控訴裁判所は再審を命じた。彼は同意判決への署名を拒否したが、新しい裁判は決して行われず、C-T-R取締役員会によって社長の地位に正式に昇進した。ワトソンがNCRからC-T-Rにもたらした多くのものの中に、彼自身がNCRで作った「Think」のモットーがあった[20]
ワトソンの作戦

NCRでの過去の記録と彼のその後のIBMに対する巨大な影響を考慮すると、驚くことに、ワトソンは1924年にジョージ・フェアチャイルドが亡くなって彼が主役になるまでの最初の十年間は、目立たないように慎重に行動していた[21]。この時期、彼は様々な決定を、フリント、フェアチャイルド、ホレリスに仰いでいた。

その間、彼は士気の高くなくて監督も不十分だったセールスマン400人を、親身にめんどうをみた。彼が公言した目的は、NCRで鍛えたような優秀な販売員を作ること、競合他社よりも優れた高度な機械を製造することであった。一連の小会議を通して、彼は営業チームに「競争力のある提案」をするように教育した。アグレッシブなセールス方法にもかかわらず、始まりから、販売テクニックと同時に、ビジネスの倫理と哲学に重点を置いた。特に、彼は誠実さ、信頼、忠誠心を強調して、「不公平な競争」と見なされる可能性のあることは何もせず、「誠実で公平かつ正統な方法」で行動するべきだとした。従業員の士気を向上させ維持するために、音楽イベントを導入し、IBMの歌をさえ歌わせた。[22]

次の四半世紀のC-T-RとIBMを動機づけた、もうひとつの哲学も明らかになった。それは会社のモットーは「サービスを販売し、提供する」こと(”IBM Means Service.”)であった。C-T-Rの目的は、顧客を真に援助することであるとした。販売が行われた時には、双方が先に進むのだと、ワトソンは強く信じていた。
組織の変遷

C-T-Rは、次の3つのおもなビジネスのある会社になっていた。

計算機付き秤:ワトソンは最も興味がなく、この分野(Dayton Scale)は1933年にホバート製造社(Hobart Manufacturing)へ売却した。売却後黒字になったので、ワトソンの後悔することになる
[23]

タイムレコーディング:最初は主な収入源であり、ワトソンはビジネスの多様化の手段として使用したが、いずれも大成功にはならなかった。

タビュレーティング・ビシネス:おそらくワトソンがNCRの経験に最も近いために、最も興味のある集計機器ビジネス。これは彼が多くの注意を向けたものであり、実際これは1930年代初頭までにC-T-Rの最大のビジネスとなった。

1920年代、ワトソンはまだフェアチャイルドの下で働いていたが、大きな成長を達成することに焦点を合わせた。収益は、彼が引き継いだ1914年の420万ドルから、1920年には1,600万ドルのピークに達した。しかし、これは不安定な現金不足をもたらした。1921年、売上は1,060万ドルに落ち、ワトソンはキャッシュフローの危機に直面した。もう一度C-T-Rはギャランティー信託会社(Guaranty Trust)によって資金提供を受けて救助された。ワトソンは研究開発の削減や従業員のレイオフなどで、全面的なコスト削減を余儀なくされたので、その後彼は再び自分の現金不足がこれほどひどくならないようにした。そのため、彼は配当を低く抑え、高収益、慎重なコスト管理の方針を堅持して、非常に保守的な会計原則を採用した。

1890年の国勢調査から始まったホレリス機器は、信頼できる操作を保証するために必要なメンテナンスを提供できるように、C-T-Rのマシンをレンタルした。 機器の注文が枯渇している時期でも、収入が継続するため、機器のレンタルは本質的に安定しているという考えなど、他の利点を認識するようになった。これはそれほどはっきりしている訳ではないが、営業担当者はレンタルを失う可能性があることを認識し、顧客との定期的な連絡を維持することを余儀なくされ、1930年代になっても顧客関係が適切に管理することを保証した。このアプローチは、IBMの活動の中心となっていった。

その後、ワトソンは意図的に新製品の導入に遅れをとったが、研究を怠った訳ではない。競合他社が新製品を発売した後でも、市場が大規模な開発を要する時期に達するまで待っていた。ワトソンは適切な研究・開発の重要性を認識し、これを管理するために1922年にジェームズ・ブライス(James W. Bryce)に任せた(1915年に彼がいたタイムレコーディング部門から彼を引きぬいた)。しかし、特に厳格な基準で行うように彼の主張を通して、個人的にも研究・開発に関与し続けた。

「ワトソンはC-T-Rというようなハイフンで囲まれた不器用な社名を好きでなかった。」と伝えられている。それをより広い意味を持つ社名の「International Business Machines」に置き換える選択をした。[24]最初は1917年のカナダ子会社の名前として使い、次に国内の広告に使った。例えば、1921年にMcClures誌(1921年5月、v53)は、下部に次を含む全ページ広告を載せている。International Time Recording Company of New YorkSubsidiary ofComputing-Tabulating-Recording Company, New YorkMakers ofInternational Business Machines

ジョン・パターソン(John H. Patterson)は1922年に亡くなり、フェアチャイルドも1924年12月31日に亡くなった。1924年2月5日、ワトソンはニューヨーク証券取引所に「International Business Machines」(IBM)を上場変更申請書を提出し、名称C-T-Rは消えた。彼自身のイメージで会社を作り上げ、次の四半世紀の間、彼が75歳になるまで、新しいレベルの成功を収めた。[25]彼は最初のクォーター・センチュリー・クラブ(社員の勤務25周年記念会)で新しい地位を祝った。C-T-Rは13年しか経っていなかったが、彼の地位は子会社での業績の資格に基づいてした。持株会社C-T-R自体は、ほとんどの子会社の業務がIBMに統合された後、1933年に消滅した。
日本との関係

日本でもパンチカードシステムは早くから注目されていて、1920年の国勢調査ではホレリス機に似せた機器が作られて試用された。その後1920?30年代には米国の「ホレリス機」(C-R-T機)、「パワーズ機」、「バロース機」などが主要企業に商社を通じて輸入されて使われてきた[26]


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