C-T-R社(シーティーアールしゃ、英語: Computing-Tabulating-Recording Company、略称:C-T-R)は1911年にタイムレコーダー、計量器、作表機、などのメーカー子会社が合同して作られた持株会社で、後にIBMに発展した[1]。
概要「en:History of IBM」および「IBM#草創期」も参照
1911年に、財政家で著名な「信託の父」と呼ばれたチャールズ・R・フリントが次の4つの会社
Bundy Manufacturing Company
International Time Recording Company
Tabulating Machine Company
Computing Scale Company of America
を傘下に持つ持株会社、C-T-R社(Computing-Tabulating-Recording Company)を創設した。
C-T-Rの本社はニューヨーク州エンディコットにあった。持ち株会社傘下は全体で1,300人の従業員がおり、タイムカード機、計量器、自動肉スライサー、パンチカード機器などの幅広い製品を製造していた。
持ち株会社のCEOはジョージ・フェアチャイルド(George Winthrop Fairchild)が勤め、1912年から1930年まではフランク・キャンドルフ(Frank N. Kandolf)であった。パンチカードの生みの親であるハーマン・ホレリスは当時51歳で、技術顧問としてC-T-R社の取締役会の一員であった。
1914年、後にC-T-R社の後身のIBMのCEOとして大きな影響を与えるトーマス・J・ワトソンが、NCRで中古製品のリース会社を意図的に廃業させるようにした件で独占禁止法により訴えられて、会社を辞めて移ってきた。彼は始め目立つような行動は慎んで、ゼネラル・マネージャーのタイトルで特にセールスのモラルを挙げることに専念し、社是の「Think」もこのころ編み出した。11か月後の1915年には独占禁止法の件は一応終わり、彼はタビュレーティングマシン会社の社長となった。
C-T-R社は1924年にInternational Business Machines(略称:IBM)に名前を変更した。その後も、もともとの4つの子会社はそれぞれそれまで確立された名前を使用して運営を続けたが。1933年には持株会社が廃止されて、個々の企業の事業が統合された[2]。
合同した4社
Bundy Manufacturing Company詳細は「en:Bundy Manufacturing Company」を参照
最初のタイムレコーダーは1888年11月20日にニューヨーク州オーバーンの宝石商ウィラード・バンディ(Willard Bundy)が発明した。1年後、兄のハーロー・バンディ(Harlow Bundy)がバンディ・マニュファクチャリング社を設立して[3]、タイムレコーダーの大量生産を開始した[4]。
1900年、バンディ・マニュファクチャリング社は、タイムレコーディング事業を新しい会社であるインターナショナル・タイムレコーディング社に売却した。バンディ・マニュファクチャリングは計算機械を製造し続けた。
1906年、ハーロー・バンディはニューヨーク州エンディコットにある新しい3階建てレンガ造りの建物に事業を移した[5]。 1894年、ニューヨーク州ロチェスターのJ. L.ウィラード(J. L. Willard)とF. A.フリック(F. A. Frick)は、世界で初めてのカード式タイムレコーダー会社として、ウィラード&フリック・マニュファクチャリング社を設立した[6]。 1900年、バンディ・マニュファクチャリング社の投資部長家兼取締役であるジョージ・フェアチャイルド(George W. Fairchild
International Time Recording Company
1906年、ITRはニューヨーク州エンディコットに移転し、バンディ・マニュファクチャリング社の新しい建物の隣に大きな工場を建設した。C-T-Rへ合同前は、ハーロー・バンディはITRの財務部長とゼネラル・マネージャーであった。[18]
最初のダイヤル式タイムレコーダーは1888年にアレクサンダー・デイ博士(Dr. Alexander Dey)が発明し[8]、1907年にITRはデルレイ・レジスター社(Del Ray Register Company)を買収した。1908年、ITRはダイヤル式レコーダーのメーカーであるシラキューズ・タイム・レコーディング社(Syracuse Time Recorder Company)を買収した。
ITRの1935年カタログには、工業用タイムクロック、録音クロック、プログラムクロックから装飾用の店頭クロックまで、さまざまなクロックがリストされている。また、シリーズ970インターコム電話システムもリストされている[9]。1907ごろ以来、ITRは従業員と顧客向けの雑誌「Time」を発行していたが、1935年にIBMは名称を「Think」へ変更した。
Tabulating Machine Companyホレリスの最初の工場(1893年)
ハーマン・ホレリスは当初、パンチカードデータ処理装置に特化したホレリス・エレクトリック・タビュレーティング・システムとして彼自身の名前で事業を行っていた。1896年に彼はTabulating Machine Companyとして法人化し、1905年にはTabulating Machine Companyとして再法人化した。1884年に最初に申請されたホレリスの集計機械技術に関する一連の特許は、1879年から82年にかけて米国国勢調査局での仕事に基づいていた。1886年のパンチカードの開発は、データ入力の集計と計算のその後80年間の業界標準となった。[10]
1896年、Tabulating Machine Companyはいくつかの機械を鉄道会社にリースした[11]しかし、その頃の最大の統計上のプロジェクトである1900年の国勢調査の課題にすぐに焦点を当てた。政府の契約を勝ち取り、プロジェクトを完了した後には、ホレリスは国勢調査以外の年にはどのようにして会社を維持するという課題に直面した。彼はターゲットを米国および海外の民間企業に戻し、半自動のキーパンチ、作表、分類機の産業用途を開拓しようとした。[12]フリントは1911年に230万ドル(ホレリスは (120万ドルを取得)で事業を買収した。 この会社は1901年に組織された持株会社で、子会社としてComputing Scale Company(オハイオ州デイトン)、Moneyweight Scale Company(イリノイ州シカゴ)、 W.F. Simpson Company(ミシガン州デトロイト)、Stimpson Computing Scale Company(インディアナ州エルクハート)を傘下に置いた。1891年、デイトンの2人のビジネスマン、エドワード・キャンビーとオレンジ・オジアスが新しく開発されたコンピューティング・スケール(電子秤)の特許を購入し、商業用スケールの生産のためにこの持株会社を設立したのであった。 当時有名な財政家のチャールズ・R・フリントは4社を新しいC-T-R持株会社に合同した。[13]C-T-Rは流動資産の3倍である650万ドルの社債を抱えており、そのうち400万ドルをギャランティー信託会社(Guaranty Trust C-T-Rの1911年の株式目論見書は、1910年5月1日から1911年4月30日までの4社の950,000ドルの純利益を報告していた[14]。 C-T-R傘下に入った4つの企業は1,300人の従業員があり、オフィスと工場はニューヨーク州のエンディコットとビンガムトン、オハイオ州デイトン、ミシガン州デトロイト、ワシントンD.C.、オンタリオ州トロントにあって、持ち株会社のC-T-Rはエンディコットにあった[15]。会長はジョージ・ウィンスロップ・フェアチャイルドであり、1906年以来アメリカ合衆国議会下院の議員であったが、経営に積極的に参加することは期待されていなかった。
Computing Scale Company of America
合同
組織とリーダーシップ