C-C-B
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経歴

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結成 ? デビュー

1977年、アマチュアバンドベーシストとして活動をしていた渡辺に、同バンドのドラマーだった伊藤真視が田口を紹介。伊藤が脱退するにあたり、中学の後輩だった笠を後任のドラマーに推薦。以降、3人の交流が始まる。その後、1979年に渡辺はロックバンド「ブルーベリー・ジャム」の二代目ベーシストとして、田口は近藤真彦の第2期専属バックバンド「ダブルス」のメンバーとして各々プロデビューした。

1982年8月(昭和57年)、東京都港区青山神宮前3丁目交差点近く)に音楽プロデューサーの上野義美が立ち上げたアメリカンDJスタイルのミニFM局「KIDS RADIO STATION」(通称「KIDS」)が誕生[注釈 1]

その「KIDS」で、夏をイメージした新生バンドを数組結成させ競わせるプロジェクトを企画した。そのうちの一組として、グループ・サウンズの再来を思わせる「和製ビーチボーイズ」をコンセプトとしたバンドを作るためメンバーを探し、Coconut Boysを結成させた。初期メンバーは渡辺、笠、関口と他3名の合計6人(うち1人はデビュー前に脱退し5人になる。田口と米川は1984年に加入)。同年、KIDS自主制作の企画アルバム『RASPBERRY AVENUE』[注釈 2]に参加してマイナーデビュー(後述ディスコグラフィー項参照)。だが肝心のメンバー全員がそれまでビーチボーイズの音楽を耳にしたことはあれど造詣が深いわけではなく、メンバー自身の音楽性や趣味嗜好は反映されなかった。1982年当時ポリドール・レコード(現:ユニバーサルミュージック)でディレクターをしていた渡辺忠孝が音源を聴く機会があり、そして「面白い」と興味を示し、自らプロデュースをしたいと名乗り出た[4]

1983年(昭和58年)、シングル『Candy』でメジャーデビュー。全農ヨーグルトヨープレイト」のCM曲に採用されたが、ヒットには至らなかった。

同年、公式ファンクラブの「MAY CLUB(メイクラブ)」が発足。

1984年(昭和59年)、メンバーの2名が脱退し、田口、米川が新メンバーとして加入し5人体制となる。セカンドシングル『瞳少女』がロート製薬なみだロート」のCM曲に、同シングルSide-2の『チリドッグがお気に入り』がマツダファミリア」のCM曲に採用される。リリース後すぐにヒットには繋がらなかったが、『Romanticが止まらない』のヒットにより過去の作品も見直された。『瞳少女』はロート製薬がスポンサーを務めたTBSテレビクイズ番組クイズダービー』、毎日放送のクイズ番組『アップダウンクイズ』でほぼ毎週オンエアされた。バンド名の表記は、放映開始当初は「ココナッツ・ボーイズ」表記であったが、『Romanticが止まらない』のヒット後に「C-C-B」表記に統一された。マツダのCMでは「ココナッツ・ボーイズ」とカタカナ表記のみ。
「Romanticが止まらない」がヒット

翌年1月期に始まるテレビドラマの主題歌担当の話が舞い込み、プロデューサーの渡辺忠孝が実兄の筒美京平にヒットにつながる作曲をと依頼したところ「松本隆が歌詞を書くなら引き受ける」という条件を出された。そして作られた楽曲が出世作となった3枚目のシングル『Romanticが止まらない』である[4]

筒美はココナッツボーイズのアルバムを視聴し、特に2ndアルバム『Boy's Life』に収録されている「シェリー」に関心を寄せた。笠の透明感のあるハイトーンボイスを気に入りメインボーカルに指名したが、ドラム担当者だと思わなかったという[5]。当の笠は圧し寄せるプレッシャーの中でレコーディングに挑んだが、何度歌い直してもいつもサビの同じ箇所でメロディーを変えて歌ってしまう(「胸が胸が苦しくなる」の末尾「なる」というメロディーを指示された下げ調子ではなく、上げ調子に歌ってしまう)。しかし筒美は咎めることなく「それで良い」と笠に声を掛け、そのメロディーに変更した[6]

1985年(昭和60年)1月25日、起死回生をかけた3枚目のシングル『Romanticが止まらない』をリリース。TBSテレビの連続ドラマ『毎度おさわがせします』(1985年1月8日放送開始)オープニングテーマ曲に採用される。同年2月21日、音楽番組ザ・ベストテン』の注目アーティスト紹介コーナー「今週のスポットライト」に出演。そのカラフルな髪色や、当時は珍しかった電子ドラムのシモンズ(英語版)がステージのセンターに据えられ、ヘッドセットを装着したドラマーがリードボーカルを取るスタイルも話題となり、一躍ブレイク。『スクール・ガール』『Lucky Chanceをもう一度』『空想Kiss』と、松本隆・筒美京平コンビによる作品を続けてリリースし、次々とヒットを飛ばした。

その頃から、バンド名の表記をC-C-Bに統一。以前より「CoconutBoys」の略称として「C-C-B」と名乗っていたが、ヒットのおかげで「C-C-B」の呼ばれ方の方が一般に浸透したこともあり、また音楽番組での紹介や雑誌掲載時に統一感がなく、そのたびに説明をする手間や混乱を回避するためでもあった。なお、関口は以前「C-N-B」の略称を提案したが、渡辺が「読みやすいし語呂も良い」とC-C-Bに決定した[7]

同年、『Romanticが止まらない』で第27回日本レコード大賞金賞を受賞。第36回NHK紅白歌合戦に出場し『Lucky Chanceをもう一度』を演奏した。

1986年(昭和61年)、第15回東京音楽祭に出場。シングル『元気なブロークンハート』発売を期に、トレードマークのカラフルな染髪をやめ、全員が地毛の色に近いナチュラルな黒髪にした。同年12月、シングル『ないものねだりのI Want You』でオリコン1位を獲得。1986年度FNS歌謡祭において『不自然な君が好き』で優秀歌謡音楽賞を受賞。

1987年(昭和62年)1月6日、関口が脱退を表明。4月6日、よみうりランドEASTでのステージをもって脱退。以後、米川がセンターポジションに就いてメインボーカルとして歌う機会が増えた。同年9月、『原色したいね』が明治製菓の菓子「かるかったウエハー」のCMソングに採用される。また、10月公開の劇場アニメ映画『勝利投手』の主題歌に採用(c/w『Love Is Light』も挿入歌として使用されている)。

1988年(昭和63年)1月、『抱きしめたい』が『日立 世界・ふしぎ発見!』のエンディング曲に採用される。

同年8月23日から8月28日にかけて『C-C-Bハワイ旅行団'88』が近畿日本ツーリストにて開催された。行き先はホノルル、内容は「C-C-Bと記念写真プレゼント」、「C-C-Bハワイ旅行団オリジナルTシャツプレゼント」、「C-C-Bとビーチピクニック・ツアー」、「C-C-Bとフェアウェル・パーティー」、「C-C-Bスペシャルオプションツアー」、「C-C-Bも参加スペシャルサンセット・クルーズ」など[8]。なお、1989年8月22日から8月27日にも第2回ハワイツアーが開催され、300名もの参加者が集まった[9]
解散

1989年(平成元年)4月21日に出演した音楽番組『ミュージックステーション』において、同年10月に解散する旨を発表。メンバー個々の音楽性・可能性をさらに昇華させる意を込めた解散であること、バンド解散後も各々音楽活動を続けていく予定であると語った。翌4月22日から「汐留PIT」[注釈 3]で2Daysライブが予定されており、そのライブで解散宣言をする予定であったが、会場に足を運べない全国のファンに対して不公平になってしまうと判断し、先にテレビを通じて解散することを発表した。同年4月25日、最終シングル『Love is Magic』をリリース。同年10月9日、日本武道館でのライブを最後に解散した。
解散後の活動

各メンバーの詳細な活動については、メンバー個別ページを参照。
2人以上のC-C-Bメンバーによるユニット(バンド)活動については、
C-C-Bメンバーによる別プロジェクトでの活動を参照。

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1991年、C-C-Bの公式ファンクラブ「MAY CLUB(メイクラブ)」が終了。理由は渡辺、笠、田口が所属事務所であるNTPプロゼ及びメイクラブから離れ、それぞれの活動をしていくことによるもの[11]


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