BT戦車
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BT戦車の最初の量産型、BT-2

BT戦車(ベーテーせんしゃ、ロシア語:Быстроходные танкиブィストラホードヌィイェ・ターンキ、略称:БТベテー)は、第二次世界大戦前にソ連が開発した一連の戦車である。

「BT」とはロシア語で「素早い戦車」を意味する「Быстрый танк」の頭文字をとったもので、「快速戦車」などと訳される[1]赤軍では「BT」の愛称形「ベテーシュカ」(бэтэ?шкаベテーシュカ)または「ベートゥシュカ」(бе?тушкаビェートゥシュカ)、卑称形「ベートカ」(Бе?ткаビェートカ)で呼んだ。ドイツ軍からは、二枚のハッチを開いた1937年型以降の砲塔の見た目から「ミッキーマウス」というニックネームがつけられた。
開発の経緯

BTの設計はアメリカ人ジョン・W・クリスティーが開発したM1928、およびM1940という戦車に由来する。M1940はM1928の砲塔の無いデモンストレーションモデルで、1930年代初めの開発にもかかわらず、先進性を主張した形式番号であった[2]。クリスティーはアメリカで様々な戦車を開発していたが、彼の独創的なアイデアは保守的な軍幹部の興味を惹くことができず、またクリスティーの発明家にありがちな尊大で気まぐれな性格のために売り込みの結果は芳しくなく、本国では少数の使用に止まったが、イギリス・ソ連では彼のアイデアを受け継ぐ巡航戦車・快速戦車が開発された。
BT戦車の誕生

新たな戦車ドクトリンに基づいて高速戦車を求めていたソ連軍は、カニンガムT1軽戦車(32km/h)を購入するために、1928年10月に赤軍兵器本部機械化自動車化局のハレプスキー局長を極秘裏に渡米させた。彼はそこで、アメリカ人発明家 ジョン・ウォルター・クリスティーの開発した、装輪装軌両用式のクリスティー戦車(M1928で装輪走行時111.4km/h、履帯装着時68.5km/h)の存在を知り、カニンガムT1軽戦車に対する興味を失い、クリスティーとの粘り強い交渉の末、クリスティー戦車の購入に至った。

当時アメリカはソ連を国家として承認しておらず、米国務省は「ソ連との商取引は自己責任」という姿勢であったが、軍需品の取引は禁止していた。

ソ連がニューヨークに置いた通商代表部「AMTORG(アムトルグ)」が、唯一の商取引の窓口であったが、ここは諜報機関でもあった。

アムトルグはクリスティーの試作戦車の入手を企図し、1930(昭和5)年4月に、2両の「M1940(=M1930)」を6万ドル(当時レートで約20万円)で、スペアパーツ類を4000ドルで、購入し、さらに10年間のソ連国内での生産、販売、使用の権利(ライセンス)も取得する契約を、クリスティーと結んだ。

2輌の「M1940(=M1930)」は、農業用トラクター名目で書類が作られ、米国務省や米陸軍省の承認無しに、ソ連に輸出された。

開発はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国ハリコフで行われた。輸入した2輌の「M1940(=M1930)」を使って1931年3月から試験を開始し、その結果を基に各部を強化するなどして、最初の量産型BT-2を開発した。

BT-2の原型よりの改良ポイントとしては、砲塔の新設、車体前部形状の変更、操縦士ハッチの変更、アルミ合金製の転輪をスポーク型の鋳造製、また後にプレス鋼板製に変更、途中から前部フェンダーの増設などである。

BT-2の成功に気を良くしたソ連陸軍はその後BT-2を改良したBT-3、双砲塔型のBT-4といった試作型を経て、砲塔を大型化したBT-5、その改良型であるBT-7を生産した。各型を総計した生産台数は7000輌を上回る。

BT戦車で確立されたソ連軍中戦車の設計思想は、その後A-32試作戦車を経て改良型のA-34の開発に活かされ、傑作戦車T-34を生み出す基となる。

後にクリスティーは、「今思えばソ連に売り込んだことが良かったのか。後悔している」と語っている。
実戦での運用ノモンハン事件に投入されたBT-7

BTはスペイン内戦張鼓峰事件ノモンハン事件ポーランド侵攻冬戦争(第1次ソ連=フィンランド戦争)等で使われた。高い機動力と当時としては強力な備砲はソ連戦車の特徴とも言え、各戦域で活躍したが、アジア方面以外ではその機動力を生かせず、投入されたBT-5、BT-7共に装甲の貧弱さが問題点で、対戦車砲火炎瓶に悩まされた。

ソ連軍では第二次世界大戦開戦時にも多数が在籍しており、1941年に始まった独ソ戦でも戦ったが、開戦時の指揮系統の混乱、機甲戦術の未熟さ等の運用面での問題もあって緒戦で大損害を受け、急速に消耗しT-34に取って代わられていった。戦争中期には完全に陳腐化しており、初戦を生き延びたBTシリーズは皆後方部隊にまわされることになった。戦争正面である対独戦方面以外での機甲部隊の装備としては戦争を通じて装備され続けており、後方での訓練用にも用いられていた。1945年になってもザバイカル軍管区に残っていたものが満州侵攻に使われている。この際には日本軍が組織的な抵抗をほとんど行わなかったこともあり、快速性を活かして活躍した。


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