BO_GUMBOS
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小正月の行事については「左義長」をご覧ください。

金鳥の使い捨てカイロについては「大日本除虫菊」をご覧ください。

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BO GUMBOS
1993
基本情報
出身地 日本
ジャンルロック
活動期間1987年 - 1995年
レーベルEpic/Sony Records
共同作業者ローザ・ルクセンブルグ
ZELDA

旧メンバー久富“どんと”隆司(vog
永井“Dr.TOSH?”利充(b
岡地明(dr
川上“Dr.kyOn”恭生(key・g)

BO GUMBOS(ボ・ガンボス)は日本ロックバンド1987年結成。1989年Epic/Sony Recordsよりメジャーデビュー。1995年解散。目次

1 メンバー

2 バンド名の由来

3 来歴

4 ディスコグラフィー

4.1 シングル

4.2 アルバム

4.3 編集盤

4.4 ビデオ

4.5 DVD

4.6 トリビュートアルバム


5 タイアップ一覧

6 出演

6.1 テレビ


7 関連項目

8 外部リンク

メンバー
どんと(
1962年8月5日 - 2000年1月28日)ボーカル・ギター
本名は久富 隆司(くどみ たかし)どんとという愛称はロッド・スチュワートに顔が似ているため。岐阜県大垣市出身。京都大学工学部石油化学科中退。2000年、ハワイ島ヒロにて、脳内出血のため死去。享年37。妻はZELDAの小嶋さちほ。長男の久富ラキタはミュージシャンとして活動しており、かつてズットズレテルズのメンバー。次男の久富奈良もナツノムジナ、Gateballersのドラマーとして活動している。
永井 利充(ながい としみつ、1961年10月23日 - )ベース・ボーカル
愛称はDr.TOSH?。東京都出身。
岡地 明(おかち あきら、1957年9月24日 - )ドラム
後に岡地 曙裕(おかち あきひろ)と改名。愛知県尾西市出身。吾妻光良 & The Swinging Boppersのドラマーとしても活躍中。
Kyon(キョン、1957年12月23日 - )キーボード・ギター・ボーカル
本名は川上 恭生(かわかみ やすお) 現在の芸名はDr.kyOn。熊本県出身、大阪育ち。京都大学卒業。
バンド名の由来

当初、どんとと永井は「プッシャーズ」や「フラワーズ」といった名前を考えていたが、Kyonが「今の自分のテーマはガンボ・ミュージックだ。GUMBOという名前を入れてほしい」と主張したため、まず「GUMBOS」となった。しかし何か物足りなく、「人名と同じように、バンド名にも姓と名があっていいんじゃないか?」と感じた時、スタジオ内でボ・ディドリーの曲が流れていたので、それを足して「BO GUMBOS」となった。

ボ・ディドリーは、どんとが敬愛するアメリカのロックンローラー。

ガンボとは、アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズに伝わる「ごった煮スープ」のこと。ここからガンボ・ミュージックとは、様々な食材が入っているガンボ料理のように、様々な音楽要素がごった煮になった音楽のことである。アメリカのブルース界の重鎮と言われたミュージシャン、ドクター・ジョン1972年にアルバム「ガンボ」を発表している。

来歴

1987年1月、ローザ・ルクセンブルグで活動中のどんと、永井の二人が、ドラムに岡地を迎えてセッションを始める。岡地は吾妻光良 & The Swinging Boppers、ブレイクダウン等の活動で知られ、当時はブレイクダウンが活動休止中であったため「リハビリだけ」ということでセッションに付き合っていた。4月、ギタリスト&キーボーディストとしてKYONが加入。どんとの大学の先輩であり、当時はテレビ製作会社の社員であった。同年8月にローザ・ルクセンブルグのラストライブが終わり、程なく新バンドのデビューライヴが決まり9月、バンド名を「THE BO GUMBOS」とする。

1987年11月22日、明治大学・生田校舎2003番教室にて行われた「生田祭“ハイパーデリックヘブンPART2”」にてデビューライヴ。共演はJAGATARAばちかぶり

1988年中頃までには「どんとが凄いバンドを作った」という評判は音楽業界では話題になっており、客席にはボ・ガンボギャルと呼ばれる派手な格好の女性ファンが増えていた。ちなみに1988年前半の東京での単独ライブ動員は200?300人前後だったが、秋には500人規模のライヴハウス(INK STICK芝浦等)の連続公演を行っていた。テレビ等のライヴ中継に加え、ビデオマガジン等でもライヴ映像が紹介され、デビュー前には既に全国に名前が知れ渡っていた。ただし、バンド名は誤表記が多く、雑誌などでは「ボンガボス」「ボガンドス」「ザ・ガンザス」等と書かれていたためバンド名から「THE」を除いた。

各社争奪戦の上、10月Epic/Sony Recordsとレコード契約。

1989年2月1・2日、初のホール単独ライヴを中野サンプラザで行う。4月21日、ビデオ「宇宙サウンド」とシングル「時代を変える旅に出よう」の同時発売でレコードデビュー(ビデオデビューは特徴的であったが、1987年にTHE BLUE HEARTSも同様にビデオでメジャーデビューをしていた)。ビデオは2月19日浅草常盤座にてライヴ収録されたもの。

4月、1stアルバムレコーディングをニューオリンズで行い、同時にJAZZ & HERITAGE FES.等に出演。レコーディングにはボ・ディドリーシリル・ネヴィル等が参加した(その模様は2ndビデオに収録された)。5月、日比谷野外音楽堂にて凱旋ライヴ。7月、1stアルバム『BO & GUMBO』を発表。8月、2ndビデオと2ndシングル「BO GUMBOS」発表。この曲はニューオリンズ・レコーディングの際、ボ・ディドリーから贈られた曲で、共演シングルとなった。

9月はボ・ディドリーとの共演ツアー。このツアーでどんとは声帯を痛める。10月から翌年1月まで中野サンプラザにてマンスリーライヴ。大晦日はレコード大賞授賞式出演で日本武道館のステージに立つ。「アルバムニューアーティスト賞」受賞。衣装もそのまま幕張メッセにてイベント「R&R BAND STAND」出演。その後INK STICK芝浦FACTORY閉店オールナイトにも参加。

1990年2月には「サンプラザマンスリー総集編」をNHKホールにて行う。3月、3rdシングル「ナイトトリッパー・イェー!!/ 最後にひとつ」を発表。9月、シングル「誰もいない」と2ndアルバム『JUNGLE GUMBO』を発表。このアルバムは東京で録音し、ニューヨークELECTRIC LADY STUDIOでミックスダウンした。

同月、フリーコンサート「HOT HOT GUMBO '90」を代々木公園野外音楽堂にて開催。ビデオシューティングをかねてのものだが、発売間近の2ndアルバムからは「ちんちろりん」1曲のみ演奏というアルバムのプロモーションをまるで無視したライヴだった。11月ビデオシングル「魚ごっこ」を発表。12月、先の「HOT HOT GUMBO '90」をビデオ発売、ホールツアーを開始(翌年1月まで)。

1991年3月、4月ファンクラブ会員限定ライブを高円寺JIROKICHIにて開催。ほぼ新曲だけによるライヴ。7月、エストニア共和国(当時ソビエト連邦)でのライヴイベント出演。共演はジェスロ・タルレニングラード・カウボーイズ等。


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