BOOWY
7月5日、当時ヴォーカルとして所属していたバンド『スピニッヂ・パワー』を脱退し帰郷を考えていた氷室京介が、日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブを観て新たなバンド結成を決意する。後日、布袋寅泰に連絡を取り六本木アマンドの前で再会。
9月、松井恒松が加入。
深沢和明、諸星アツシが加入。
1981年
サポートメンバーとして木村マモルを迎え、メンバーが揃う。所属事務所ビーイングの副社長でサウンドプロデューサーの月光恵亮により、その当時「ガール(英語版)」というイギリスのハードロックバンド(メンバーは全員男性)がいたことに対抗し、こちらは男ばかりだからそのまま「ボーイ」だろうということで、当て字で『暴威』と命名された[13]。それを聞いた社長の長戸大幸からは、当時人気だった『横浜銀蠅』にあやかって『群馬暴威』という名を提案されたものの、メンバーから猛反対され即ボツになった。ちなみに、デヴィッド・ボウイの名前から命名されたという俗説もあるが、当時の媒体の思い込みによるものである[13]。ただし『暴威』という当て字は、デビッド・ボウイの為に山本寛斎がデザインした衣装に書かれた『出火吐暴威』の文字からとっている[14]。
当時の暴威は長戸曰く「元暴走族の破天荒な連中」で「手に負えない不良バンド」だったため、ロフト創業者の平野悠に預けられる[15]。新人バンドオーディションでも、氷室が店長相手に喧嘩を売るなどしたため、平野も随分手を焼かされたという[15]。
5月、最初のアルバム『MORAL』レコーディング開始。
5月11日、新宿ロフトでデビューライブ「暴威LOFT FIRST LIVE」を行う。ちなみに、このギグの観客は13人(男性9人、女性4人)[15]。その中にはIMITATION(今井裕・高橋ゲタ夫率いるバンド)を脱退して1週間後ボーイマネージャーから入ってくれないかと電話で誘いを受けたSatoshi(ライブを5分観て公衆電話から断りの電話を入れた)、ギタリストの山田淳の誘いで観に来た高橋まこともいた。他には、氷室と同郷の女暴走族リーダーおよびその連れの女性2名。後日、高橋がスタジオでのセッションを経て正式加入し、木村が脱退。
1982年
1月28日、バンド名を「BOOWY(ボウイ)」に改名。
3月21日、ビクター音楽産業より最初のアルバム『MORAL』発売。プロデューサーはマライアの渡辺モリオ。
9月9日、渋谷PARCO PARTIIIのライブで「CHANGE COSTUME」と題し、それまでのパンキッシュな楽曲からニューウェイブ系のメロディアスな楽曲へとシフトチェンジ。衣装も黒ずくめからカラフルなものに変える。このライブがバンドの一つの転機となった。
10月9日、この日行われた新宿LOFTでのライブを最後に深沢と諸星が脱退し、氷室・布袋・松井・高橋の4人編成となる。
1983年
4月30日、新宿LOFTを皮切りとして、「AFROCKABILY LIVE」と題したシリーズGIGを展開。
9月25日、徳間ジャパンよりアルバム『INSTANT LOVE』発売。プロデューサーは脱退した木村マモル。サンプル盤の「OH!MY JULLY」のB面、「FUNNY-BOY」が新宿有線で3週連続1位を獲得。
秋、メンバーと土屋浩の5人でプライベートオフィス「O-con' nection」を設立。
12月31日、内田裕也が発起人となっているイベント「NEW YEAR ROCK FESTIVAL」(西武劇場[注釈 2])に出演。
1984年
3月30日・31日、新宿LOFTで2DAYSライブを開催(「BEAT EMOTION LOFT 2DAYS ?すべてはけじめをつけてから?」)。ホール展開も視野に入れたバンドの飛躍へ向けた「けじめ」のライブであった。
5月31日、拠点を渋谷LIVE INN へ移し「BEAT EMOTION」と題したシリーズギグを行う。夏からは同名のタイトルで全国ツアーを展開。
10月7日、ユイ音楽工房(現:ユイミュージック)と契約し、レコード会社を東芝EMIに移籍することを決定。同時にライヴの半年間休止も発表された。
12月6日、氷室、「狂介」から「京介」に改名。
1985年
2月24日、ベルリンのハンザ・スタジオで『BOOWY(ボウイ)』レコーディング開始。
3月12日、ロンドンのマーキー・クラブ(英語版)でGIGを行う。
4月13日、赤坂ラフォーレミュージアムでマスコミに招待状を送ったコンベンションライブを行う。
6月1日、ファーストシングル『ホンキー・トンキー・クレイジー』発売。
6月21日、アルバム『BOOWY(ボウイ)』発売。プロデューサーは佐久間正英。
6月25日、渋谷公会堂で初の大ホール・ワンマンコンサートを行う。
8月22日、シングル『BAD FEELING』発売。
9月6日、名古屋芸術創造センターで「BOOWY'S(ボウイズ) BE AMBITIOUS」ツアー開始。
12月24日、渋谷公会堂で同ツアー終了。このライヴ終了後にステージ上で布袋が山下久美子との結婚を発表した。
1986年
2月1日、シングル『わがままジュリエット』発売。
3月1日、アルバム『JUST A HERO』発売。
3月24日、「JUST A HERO TOUR」スタート(青山スパイラルホール)。
7月2日、「JUST A HERO TOUR」終了(日本武道館)。
7月31日、「JUST A HERO TOUR」日本武道館)公演を収録したライブ・アルバム『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』を限定盤(後に通常盤が再発売された)として発売。
8月2日-3日、南こうせつの野外ライブ「第6回サマーピクニック」(玄海彫刻の岬・恋の浦)にゲスト出演。
9月29日、シングル『B・BLUE』発売。
11月8日、アルバム『BEAT EMOTION』発売。
11月11日、石川厚生年金会館より「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」開始。
1987年
2月24日、日本武道館で「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」ツアー終了。
4月6日、シングル『ONLY YOU』発売。
7月22日、シングル『MARIONETTE』発売。
7月31日、ワールド記念ホールでライブ「CASE OF BOOWY(ボウイ)」を開催。しばらく演奏されていなかった初期の曲もセットリストに含めた、バンドの総括的なライブであった。8月7日には横浜文化体育館でも開催された。
8月9日、宮城県にて行われたライブ・イベント「ロックンロールオリンピック」に出演。
8月22日-23日、グリーンピア南阿蘇アスペクタにて行われたライブ・イベント「BEAT CHILD」に出演。
9月5日、アルバム『PSYCHOPATH』発売。
9月16日、宇都宮市文化会館で「ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」開始。
10月26日、シングル『季節が君だけを変える』発売。
12月24日、同ツアー最終日渋谷公会堂でのライブ中に解散宣言。(1224)
12月25日、新聞各紙の広告スペースに解散メッセージが掲載される。
1988年
2月3日、未収録3曲を追加した『MORAL+3』、12インチシングル『DAKARA』発売。
4月4日・5日、東京ドームにて「LAST GIGS」を行う。解散コンサートではなく、少し早い同窓会だとメンバーは語った。終了後の移動車両の中でメンバー全員が泣いたという。
5月3日、アルバム『LAST GIGS』発売。
12月24日、アルバム『SINGLES』発売。
逸話
結成について
氷室はBOOWY(ボウイ)結成以前、レコード会社の意向によりスピニッヂ・パワーのボーカルとしてデビューしたが、音楽性の違いから脱退。当時付き合っていた女性とも別れ、ついには音楽の道を諦め、帰郷する決意をする。しかし、最後のつもりで立ち寄った日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブを観て一念発起。群馬時代のライバルだった布袋のもとへ連絡を入れ、六本木アマンドの前で再会する。この時に布袋は、氷室の風貌が群馬時代の硬派な印象からニュー・ウェイブ風へ変化していたことに驚いたという。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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