BNPパリバ
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一方、クレディ・リヨネ(現クレディ・アグリコル)とソシエテ・ジェネラルと商工信用銀行(現・クレディミュチュエルスエズ運河会社も参照)は、1950年代末から1960年代前半にかけて刊行された創立百周年記念の社史がある。しかし、パリ割引銀行にだけはそのようなものがない。

国民商工業銀行の起源は、1848年創業のミュルーズ割引銀行と、投資銀行のBanque Fran&ccedilse pour le Commerce et l'Industrie が共同で設立したBanque Nationale de Credit である。1920年代にBanque Fran&ccedilse pour le Commerce et l'Industrie と合併したが、投資銀行の長期債権が世界恐慌で焦げついてしまった。そこで1932年4月、預金を政府に保証してもらい、貯蓄銀行の国民商工業銀行として再出発したのであった。以後は恐慌で行き詰まった銀行を吸収して規模を拡大、1940年には北アフリカに支店を出すまでに成長した。1947年、ロンドン支店を経営分離し、この新しい「英仏銀行」にSGウォーバーグとロバート・ベンソン(後のクラインワート・ベンソン・ロンズデール。ソシエテ・ジェネラルを参照。)を参加させた。パリ国民割引銀行がリテールに強いのに対し、国民商工業銀行は海外展開を得意とした[9]
パリバ

1872年1月27日、Banque de Credit et de Depot des Pays-Bas(オランダ貯蓄信用銀行)とBanque de Paris(パリ銀行)が合併し、Banque de Paris et des Pays-Bas が誕生した。資本金は1億2500万フランで、半分が公募された。設立して一年もたたない間に、普仏戦争の賠償金支払を目的とした国債について、その1/3にあたる30億フラン分を発行するためクレディ・リヨネと協力しコンソーシアムを率いた。オランダ貯蓄信用銀行のルーツに関係して、パリバのブリュッセル支店がコンソーシアムの中心となった。[11]

オランダ貯蓄信用銀行は1863年にアムステルダムで創業した。1870年までにパリを最初としてブリュッセル・アントワープジュネーブに支店を開設していた。この銀行にはEdouard HentschやAlphonse Pinardのような投資家と、ビショフスハイム家・ゴールドシュミット家・バンベルグ家の閨閥に関係しプライベート・バンキングをあつかう銀行が参加した。[11]

パリ銀行は1869年に設立された。創設者はAdrien Delahante、Edmond Joubert、Eugene Gouinといった富豪であった[11]。Eugene Gouin は1714年来の家業を営む銀行家であった。1888年から1909年まで預金供託金庫監査委員会の議長を務め、1898年にアルフォンス・ド・ロチルドとLes Banques Francaises という団体を代表した[12]インドシナ銀行の役員も務めた。

パリバは日露戦争後の1907年に8000万フランへ増資した。1912年、資本金は1億フランに達した。1909年から1913年までにパリバのあげた総収益で、国債発行と企業創設における金融仲介によるものが7割を占めた。19世紀末に世界中の国債を引き受けていた。本国とベルギーおよびそれぞれの植民地債[† 5]、1888年来のロシア帝国債バルカン半島スカンジナビア半島諸国債[† 6]ラテンアメリカ諸国債[† 7]が代表例である。パリバは工業会社と公共事業にも利権を獲得した。スペインとロシアの鉄道、ベルギー・フランス・エジプト・モロッコ・オスマン帝国の路面電車および電力、フランス・ロシアの鉄鋼業、そしてノルスク・ハイドロである。他行では投資信託を運用した。それは世界中で行われたが、たとえば露亜銀行やBanco Espanol de Credito[† 8]やBanca Commerciale Italiana(現・インテーザ・サンパオロ)でパリバのポートフォリオが構築された。こうしたグローバルビジネスを展開しながら、パリバは支店レベルで主にベアリングス、ドイツ銀行、Wiener Bankverein、そしてアメリカのクーン・ローブとコルレス網を編み上げた。[11]

第一次世界大戦中、本国の戦時国債を引き受けたり、フランス財務省の口座開設をスペイン・オランダ・スイス・スウェーデン各国で斡旋したり[† 9]、クールマン(フランス語版、英語版)の兵器産業Compagnie Nationale de Matieres Colorantes et Manufactures de Produits Chimiques du Nord(現・リオ・ティント・アルキャン)を金融面で支えたりした。1919年から1937年までHorace Finaly が総支配人を務めた[† 10]。前段で述べた1900年前後とさほど変わらない拡大経営が続いた[† 11]。1923・1932・1933年の三度、パリバが主幹事としてベルギーとチェコスロバキアの国債を発行した。オーストリア・ポーランド・ルーマニアの発行ではシ団へ参加したが、ルーマニアに限っては1928年と1931年にパリバが主幹事となった。Compagnie generale du Maroc のような植民地会社もつくってブロック経済に貢献した。Compagnie Francaise des Petroles(現・トタル)やElectrabel(現・エンジー)や通信のアヴァス(フランス語版、英語版)(旧アヴァス通信社。1998年、粉飾決算のあったCendant を10億ドルで買収し、同年ヴィヴェンディ・ユニバーサル・パブリッシングとなった。センダントは現ヴィヴェンディ・ユニバーサルゲームズ)の金融にも関わった。[11]


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