その他の用法については「BNP」をご覧ください。
BNPパリバ
BNP Paribas S.A.
種類株式会社
市場情報Euronext: BNP
BNPパリバ(ビー・エヌ・ピー・パリバ[† 1]、仏: BNP Paribas S.A.)、または、BNPパリバ銀行(ビー・エヌ・ピー・パリバぎんこう)は、欧州のメガバンクである[1]。 2000年にパリ国立銀行(Banque Nationale de Paris
概要
2003年までにBNPパリバのイタリア証券サービス部門は(BP2S in Milan)、証券決済およびカストディサービスに特化して業界での存在感を示した。そして2006年に国立労働銀行を買収した[† 3]。
2007年8月、BNPパリバ傘下のミューチュアルファンドが顧客の解約を凍結した(パリバ・ショック)[3][4]。これらのファンドは、融資先であるシャドーバンクの経営危機をきっかけとして顧客の取り付けに遭っていた。連鎖的な金融不安を恐れた欧州中央銀行により、948億ユーロ(当時の日本円で約15兆円)の資金供給が行われた[5][6]。
世界金融危機においてBNPパリバはメガバンクの中で被害を抑えた方だったが、それでも連邦準備制度から国際的なベイルアウトを受けた。危機の後、フォルティスグループの相当部分を買収した[7]。
2012年6月、HSBCなどと並び為替相場(LIBOR等)の不正操作をめぐる民事訴訟を提起されていた事件で和解に至った。2013年12月、ラボバンクのポーランド支店を14億ドルで買収した。
2014年6月、アメリカ合衆国のキューバ・イラン・スーダンに対する経済制裁に背き、取引記録を偽装し共謀事実を隠蔽した罪を認めた。科料は89億ドルだった。
2014年現在、BNPパリバは欧州銀行同盟にて総資産が首位であり、2位のクレディ・アグリコル、3位のドイツ銀行、4位のソシエテ・ジェネラルを上回る。そしてブロックチェーン開発コンソーシアムのR3CEV LLC に参加している。
2017年12月現在の株主構成がホームページ上で公開されている[8]。筆頭株主はベルギー政府(7.7%)。次点でブラックロック(5.1%)。従業員も資本参加している(4.0%)。機関投資家の持分は、欧州内の投資家で44.5%にのぼり、欧州外は31.9%である。現会長はジャン・レミエール(Jean Lemierre)で、社長はジャン=ローラン・ボナフェ(Jean-Laurent Bonnafe)。BNPパリバは2015年にフランス銀行総裁に就任したフランソワ・ビルロワドガローの出身行である。 パリ国立銀行はユーロ市場への適応戦略としてソシエテ・ジェネラルと合併を検討していた。1999年1月、ソシエテ・ジェネラル側が突如交渉を中断、ソシエテ・ジェネラルがパリバを合併する合意を得たと一方的に通告した。パリ国立銀行は政府支援を受けてソシエテ・ジェネラルとメディア戦争を展開しながら、ソシエテ・ジェネラル株を一時37%も買収した。しかし目標の4割に満たなかったので全取得分を返上し、代わりにパリバを買収した[9]。 フランス2月革命後の経済的な信頼低下を受け、1848年にフランス第二共和政下で経済対策としてパリ割引銀行(Conservatoire National d’Escompte de Paris; CNEP)が設立された。1860年の英国との自由貿易条約、植民地等へ向けた国外支店認可などから国際的な知名度を得た。第二次世界大戦後、1945年12月のシャルル・ド・ゴール政権下で国有化され、国立パリ割引銀行(CNEP)となるが、1960年代に低迷し、国内預金額では3位の国立商工業銀行
歴史
パリ国立銀行(BNP)
1966年1月、同政権下で欧州における金融強化を目的として銀行法が改正され、同年5月に国立パリ割引銀行(CNEP)と国立商工業銀行(BNCI)と合併して資本強化され、この両国立銀行の再編でパリ国立銀行(BNP)が誕生した。初代会長は、国立パリ割引銀行(CNEP)出身のHenry Bizot が任命された。
1979年、会長にジャック・カルヴェットが就任した。ジャックはヴァレリー・ジスカール・デスタン政権の1959年から1974年までフランス会計検査院(フランス語版、英語版)のメンバーとして働いた[† 4]。1980年代、BNPがパレスチナテロ組織の資金洗浄の拠点となったことがCIA 関係者に暴露されていた。また、イラク石油食糧交換プログラム事件でも当局の調査対象になった。1997年には複数の銀行が保有していた北朝鮮向け融資債権をまとめて証券化し、金利のないゼロクーポン債として発行している[10]。総額は7億7700万ドイツマルクであった。
パリ割引銀行の特筆性は様々である。パリの株式銀行群において歴史の長さと規模の大きさが共に目立つ。また、19世紀後半にフランス・フランを極東へ満足に供給しえた唯一のフランス系銀行でもあった。結果として1860年、政府の要請でフランス銀行に代わり各植民地銀行を助ける公認コルレスバンクとなった。そして四年後に香港上海銀行の初代頭取ヴィクター・クレッサーを輩出した。しかしパリ割引銀行は、一般に閉鎖的といわれるパリの銀行の中でも特に情報開示が乏しい。E. Kaufmann が自著La banque en France(1914) の中で、「パリ国民割引銀行は、他の二つの預金銀行も同様であるが、自行の過去の報告書の閲覧を拒否した。ベルリンの友好銀行の懇請にもかかわらずである。それで1865年以降については、新聞論評と貸借対照表しか私は研究に利用できなかった」と述べている。パリ国立銀行によると、パリ割引銀行時代の資料は全て失われたそうである。一方、クレディ・リヨネ(現クレディ・アグリコル)とソシエテ・ジェネラルと商工信用銀行(現・クレディミュチュエル。