BC級戦犯
[Wikipedia|▼Menu]

BC級戦犯(BCきゅうせんぱん)は、連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」またはC項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた個人[1]の総称。A項の平和に対する罪で訴追された者は「A級戦犯」と呼ぶ[2]

日本のBC級戦犯は、GHQにより横浜マニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。被告人は約5700人で約1000人が死刑判決を受けたとされる[3][4]

なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)においてもA項目の訴追事由では無罪になったが、B項、C項の訴追理由で有罪になった者がいた(松井石根)。[5]

なお、日本に対してはほとんどB項しか適用されていない[6]
定義

ナチス・ドイツポーランド侵攻以降、ナチス・ドイツによる残虐行為に関して各国政府やその代表などから非難の声があがっていた。この声はその後、ロンドン-セント・ジェームズ宮殿における宣言において責任者の裁判による処罰の言及に発展し、1943年10月の連合国戦争犯罪委員会発足の契機となった。

1943年11月1日にはモスクワ宣言が発表され、その中でナチス・ドイツの戦争犯罪人の処罰は犯罪が行われた国で裁判にかけ、地域が限定されない戦争犯罪人(主要戦争犯罪人)は連合国の判断に委ねることが宣言された。

連合国戦争犯罪委員会による1944年10月の提言では、組織的かつ大規模な残虐行為に伴う主要な戦争犯罪には国際法廷を、それ以外の戦争犯罪には軍事法廷を開くことが記されていた。この提言はイギリスによって否定されたが、後の国際軍事裁判所条例におけるA?C項目の戦争犯罪類型の原型となった。極東国際軍事裁判所条例では、この戦争犯罪類型の一部を変更して取り入れている。

A項「平和に対する罪」((a) Crimes against Peace) に関連する犯罪は、ドイツ-ニュルンベルクの国際軍事裁判所と日本-東京の極東国際軍事裁判所で審理され、それ以外のB項「通例の戦争犯罪」・C項「人道に対する罪」を主とした犯罪は、各地の連合国軍と犯罪が行われた各国において審理された。

B項「通例の戦争犯罪」((b) Conventional War Crimes) とは、戦時国際法における交戦法規違反行為 (Namely, violations of the laws or customs of war) を意味する。

C項「人道に対する罪」((c) Crimes against Humanity) とは「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、捕虜の虐待、追放その他の非人道的行為」と定義されたが、この概念に対しては当時から賛否の意見が分かれていた。なお、このC項は、日本の戦争犯罪とされるものに対しては適用されなかった。

国際法学者一又正雄は、B級は指揮・監督にあたった士官・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者、主として下士官兵士軍属であるという主旨の説明をしている[7]

なお、A級、B級、C級の区別は国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判所条例(: Charter of the International Military Tribunal for the Far East)における分類である。

また、「BC級戦犯」はアメリカ合衆国での呼称であり、イギリスやオーストラリアでは「軽戦争犯罪裁判(: Minor war crimes trials)」と呼ばれている[6]
戦争犯罪人のリストアップ.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "BC級戦犯" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年7月)

連合国は戦時中・戦後と戦争犯罪に関する情報を収集していた。

これらの情報は連合国戦争犯罪委員会に提出され、それを基に1948年3月までに36,529名の容疑者リストを作成した。

また、日本の戦犯を対象として、中国重慶に設置された同委員会極東太平洋小委員会では3,158名、連合軍東南アジア司令部では1945年11月10日までに1,117名のリストが作成された。

これらのリストは戦犯の捜査機関を持っている各地の連合軍や各国に配布され、戦犯の逮捕に利用された。

リストに載っていない者であっても、各捜査機関の判断により逮捕・調査が行われることもあった。
BC戦犯の逮捕

ダグラス・マッカーサー元帥厚木に到着すると真っ先にエリオット・ソープ准将に東條以下の戦争犯罪人を逮捕するよう命じた。

GHQは、1945年9月11日東條英機など43名をはじめとして、1948年7月1日までに2,636名の逮捕令状を出し、2602名の容疑者を逮捕・起訴した。

イギリス軍を主体とする連合軍東南アジア司令部は1946年5月の時点で8,900名を逮捕し、この他にソビエト連邦軍アジア各国で逮捕されている。正確な容疑者の逮捕総数を示す資料はないが、第一復員局法務調査部では1946年10月上旬の時点で約11,000名が海外で逮捕されたと推計していることなどから、その数が1万名をはるかに超すものと考えられている。

日本はジュネーヴ条約(赤十字条約)のひとつである俘虜の待遇に関する条約を、加入はしたものの批准していなかった(適用すると連合国側には約束はしていた)事から、参謀本部や軍令部にも条約への意識が無く、捕虜の扱いについて指示がまちまちとなった。

その結果、各部隊に捕虜の人権への理解が届かずに処刑や虐待に繋がり、必然的に訴追対象者の増加にも繋がっている(九州大学生体解剖事件、油山事件など)。

戦後の海軍反省会では軍令部の高級参謀達が当時を振り返り、「捕虜であろうと敵は一人でも多く殺せ」という空気があり、それが軍全体に行き渡ったのだろう」と証言している。この中で元大佐の大井篤は中国三竈島における海軍の民間人掃討を例に、日本兵の人権、人命軽視は日中戦争の頃より醸成されて麻痺してしまっていた事も影響したと指摘している。

また、連合軍軍用機の搭乗員の捕虜に対する扱いも問題となった。田中宏巳「BC級戦犯」(ちくま新書)では、「航空機と地上部隊の戦いは『一方的に航空機が攻撃を加え地上部隊は無力感と憎悪が高まる』という具合になりやすい。この状況で軍用機が墜落して搭乗員が捕虜となった時に、ついさっきまで空中から一方的に自軍を殺戮していた者が『捕虜になった以上ジュネーヴ条約で守られる権利がある』ということなど戦場の兵士にはとうてい受け入れられない」と述べている。

同書によると、石垣島で米軍機搭乗員3人が捕虜となった後殺害された件で(後に減刑されたが)死刑判決42人という事例もあり、軍用機搭乗員捕虜の殺害では全体的に死刑判決が多くなる傾向にあったという。

戦犯逮捕の過程では、敵軍の裁きを潔しとしないという理由で自らの命を絶った者もいた。主なものを挙げると、杉山元元帥陸軍大将、開戦時の参謀総長)は拳銃自殺橋田邦彦(文部大臣)、近衛文麿(元首相)の2名は服毒自殺、小泉親彦東條内閣の厚生大臣、軍医中将)、本庄繁(元関東軍司令官、陸軍大将)は割腹自殺を行っている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:63 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef