B767
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ボーイング767

ボーイングの767-200型機

用途:旅客機貨物機

分類:セミワイドボディ民間旅客機

製造者: ボーイング

運用者


デルタ航空

全日本空輸

日本航空

エア・ドゥ

ほか


初飛行:1981年9月26日

生産数:1069機(2014年12月)

運用開始:1982年9月8日ユナイテッド航空

運用状況:運用中

ユニットコスト:
767-200ER: 1億1,800万-1億2,800万USドル
767-300ER: 1億3,300万-1億4,900万USドル
767-300F: 1億4,300万-1億5,500万USドル
767-400ER: 1億4,600万-1億6,050万USドル
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ボーイング767(Boeing 767)は、アメリカ合衆国ボーイング社によって生産されている中型双発旅客機である。アメリカの主要都市を結ぶ航空路線用として開発された中距離旅客機である。同時期に開発されたボーイング757とともに、グラスコックピットを装備した「ハイテク機」と呼ばれ、自動着陸を含むオートパイロット機能をもつ。

計画中に石油危機などが発生したことから、経済性を重視した旅客機として開発されることになった。結果、ワイドボディ機の標準から外れる、比較的細い胴体を有する旅客機として、セミワイドボディ機に分類される。

本項では以下、ボーイング製の旅客機については、「ボーイング」という表記を省略し、数字のみで表記する。例えば「ボーイング767」であれば、単に「767」とする。
沿革
開発の経緯
中距離旅客機の構想

ボーイングでは、1970年頃からイタリアアエリタリアとの共同研究として、QSH旅客機と呼ばれる、低騒音の短距離離着陸機の研究を進めていた[1]。このQSHは、全長が38.8m、主翼幅は40.0mというもので、エンジンを主翼上に配置するものであった[2]。しかし、この種の旅客機が十分な市場規模となるにはそれ相応の環境整備を必要とし、またその環境整備には相当な期間がかかるとみられた[1]ことから、まず180席から200席程度の座席数で、1800マイルから2500マイルの航続距離を有する中距離旅客機を先に開発することを考えた[2]。これは、この規模の旅客機が、次世代において大きな市場規模となると予想されたからである[2]

この計画は、ボーイング社内では「7X7」と呼ばれており、双発機(エンジンを2基搭載する航空機)と3発機(同3基搭載)の2種類が検討されていた[2]1973年までに「7X7」の研究が進展したことに加え、アメリカの大手航空会社であるアメリカン航空が3発機に強い関心を持っていることが判明した[2]ため、同年初頭に世界の主要航空会社に対して「7X7」の説明を行った。

ボーイングでは、中距離用140席クラスの双発機であるデザイン案を有力視していたが、1973年5月1日に座席数180席クラスの3発機のデザイン案「モデル751-666」が発表されると、多くの航空会社はそちらに関心を持った[2]。「モデル751-666」では、主翼の上面にエンジンを配置することで低騒音化をねらった上、残る1基のエンジンは727のように胴体最後部に配置するというものであった[2]。また、座席配列は横6列か7列で、ハイデンシティ(高密度)配置では横8列にすることも検討されていた[2]
3国共同開発へ 詳細は「YX」を参照

これより少し遡った1966年代後半から、日本オランダフォッカーYS-11に続く民間航空機を共同開発するための構想を進めていた[3]が、1970年4月にフォッカーに180席クラスの案についての説明をした[4]後、ボーイングにその調査の経過を説明した[4]。ボーイングはここで日本が航空機の国際共同開発を計画していることを知り、日本に対してボーイングとの国際共同開発について提案した[4]

これを受けて、日本の通商産業省(現・経済産業省)や製造業界では、ボーイングとの共同開発のほうがより大きな市場展開が期待できるだけでなく、世界最大の航空機製造会社からの共同開発申し入れは我が国航空機産業への信認と声望を内外に印象づけるという意見が多勢を占めるようになった[4]。日本では1973年4月1日に民間輸送機開発協会(CTDC)という社団法人を設立[4]し、その後はCTDCが日本側の窓口となってボーイングとの交渉に当たることになった。

前述の通り、ボーイングではすでにアエリタリアとQSHについての共同研究を進めていたが、その研究が進むにつれて、前述の「7X7」案として固まりつつあった時期に、ボーイング・アエリタリア・CTDCの3社共同開発という方針となっていった[4]
石油危機による方針変更

ところが、1973年石油輸出国機構(OPEC)やアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油生産の段階的削減や石油禁輸などを相次いで決定したため、全世界的な石油危機が引き起こされた[2]。石油危機は航空業界において燃料価格が2倍から3倍にもおよぶ高騰を招いただけでなく、社会的にもインフレーションと不況を招くことになったため、航空会社の経営は悪化することとなり、とても新型機の導入どころではなくなり、ボーイングの「7X7」計画の進展にも影響を与えた[2]

こうした社会環境においては、航空機製造会社による新型機のデザインは、速度や快適性よりも省エネルギー性が優先される[2]ことになり、ボーイングも例外ではなかった。「7X7」構想自体も変化せざるをえなくなり、巡航速度マッハ0.83からマッハ0.78程度に抑えられ、主翼の後退角アスペクト比燃費や空気抵抗の減少を最優先する構造に変化した[2]。主翼の上面にエンジンを配置するというデザインも、1974年1月までにはすべて主翼下面に吊り下げる構造に変更された[2]。その理由は、燃料消費を減らすために有利であるから[2]というものであった。

ボーイングの経営状態も不振に陥ったため、ボーイングでは新型旅客機の開発には、日本が共同開発に加わることを強く期待していた[5]。当時のボーイング社長に至っては、事業比率を50:50とし、航空機の名称でも「ボーイング/ジャパン」とすることを提案していたほどであった[5]。しかし、日本が意思決定に手間取っている間の1974年6月頃になると、航空会社は石油危機から立ち直る気配を見せ[6]、これに追随するかのように、ボーイングの経営状態も改善することになった[5]。このため、ボーイング側の態度も次第に強気なものとなり、ついにはボーイング側から「これまで航空機開発で蓄積した貴重なノウハウを提供する以上、日本側からは相応の利益を提供すべき」という要求まで出る状態になった[5]。結果的に、新型旅客機の開発では、日本は15パーセントの事業分担となり[7]、「事実上ボーイングの下請けである」という意見も出る状態になったのである[8]
双発機と3発機

ともあれ、停滞気味であった「7X7」構想も再び具体化する方向へと進み始めた[6]。とくにユナイテッド航空は、「7X7」構想の仕様決定に対するリーダーシップをとるようになり[6]、ボーイングもユナイテッド航空が「7X7」に大きな期待を寄せていることを確信するようになった[6]。1975年には、計画案として胴体中央部の幅が少し狭くなった、エリアルールを適用した計画案を立案した[6]が、これは727の発展型のようなデザインの3発機であった[6]


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