B-36_(航空機)
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また、操縦席からすぐ後ろにある爆弾層には当時の核爆弾を起爆させるための操作を行う為に専用のスペースが設けられていた。

B-29並びにB-50と同様に射出座席は装備されておらず、搭乗員は緊急時には落下傘で脱出する手筈になっていた。更に不時着水の際には搭載された救命艇で逃げるようになされていた。

長大な主翼には大量の燃料タンクを内蔵しており、エンジンを半埋込式に搭載していることもあって、翼厚はもっとも厚いところで2.3メートルほどもあり、点検および整備の際には爆弾倉に設けられた通路(前述の前後乗員区画連絡用トンネルとは異なる)から翼内のエンジン収容部および主脚収容部に到達することができた[4] 。ただし、この通路は与圧区画外のため、移動は地上駐機時および与圧を必要としない高度を飛行している場合に限られた[5]

エンジンおよびプロペラは主翼の後方に向けて取り付けられている、推進式と呼ばれる形式である。一基あたり約3,000 - 4,000馬力を発揮する四重星型28気筒レシプロエンジンを6基搭載し、これは実用化されたプロペラ機としては当時世界最大であったが、それでも推力が不足気味であったため、最初の実用型の就役後に開発されたばかりのジェットエンジン(推力:5,200重量ポンド)を左右の主翼下に各2基ずつ、計4基をパイロンで吊り下げて追加し、空前絶後の10発爆撃機となった。このレシプロ6発+ジェット4発の推力により、150トン近い離陸重量で高度10,000メートルを最高速度700 km/hで飛行することが可能で、爆装しない場合であれば最大15,000キロメートルあまりの航続距離が、最大爆装時でも4,000キロメートルの戦闘行動半径がある(※速度や航続距離は型によって異なる)、超長距離高速戦略爆撃機であった。爆弾倉を下方から見上げたところ
画面奥側を左右に横断しているものが前後乗員区画連絡用のトンネル(Communication tube)

胴体の半分以上は爆弾倉であり、4つに分割された区画に合計で最大87,200ポンド (39,600 kg)の爆弾を搭載できた。これは第2次世界大戦時の主力爆撃機であるB-17の6倍以上、B-29の4倍以上の搭載量である。大量の各種通常爆弾の他、全長25フィート (7.6 m)、総重量42,000ポンド (19,000 kg)のサイズと重量を持つMark.17 水素爆弾が搭載可能であり、B-36はその就役期間においてMk.17を搭載できる唯一の爆撃機だった。B-36に搭載された隠匿式20mm機関砲の連装銃塔

防御兵装も充実しており、機体各所に連装8基、計16門[注釈 4]M24 20mm機関砲を装備していた。防御兵装のうち、機体上/下面に装備されたものは使用時以外は機体内部に引き込む隠匿式となっており、使用時には機体外板をスライドドア式に開き、銃塔を展開して外部に露出させて用いる。機関砲は全て乗員区画の外にあり、乗組員区画内の射撃管制装置により遠隔操作される完全無人式であった。なお、部隊配備後に、機内収納式銃塔は展開時に空気抵抗を増大させて飛行性能を悪化させること、また機首銃座と併せて射撃時の振動で電子機器の故障や機内配線が損傷する原因となる(これは1950年11月のS/N 44-92035号機墜落の一因とされた[6])ことが判明し、重量を軽減して航続距離を延伸させるため、尾部銃座以外の防御武装と射撃管制装置はF型の就役以降から順次撤去されている。J型では銃塔収納部を計2,700ガロン分の機内燃料タンクとして燃料搭載量を増加させている。

巨大な機体を少しでも軽量化するため、外板にはマグネシウム合金素材を多用していた。そのため、同時代の他のアメリカ製爆撃機も同様であるが、墜落事故を起こすと跡形も無く全焼することが多かった。
開発試作型 XB-36。ランディングギアは戦車の履帯に変更されている。

B-36の起源は、1941年の始め、アメリカの第二次世界大戦の参戦前まで遡ることができる。その時点では後に連合国の同盟国となるイギリスが敗北する可能性も十分考えられ、その場合、B-17B-24などのこれまでの爆撃機では、ドイツへの戦略爆撃は不可能になることから、アメリカ本土から大西洋を横断してヨーロッパを爆撃できる新たなクラスの爆撃機が必要となるであろうと考えられた。

アメリカ陸軍航空軍(USAAC)は

最高速度450マイル毎時 (720 km/h)、巡航速度275マイル毎時 (443 km/h)

運用高度45,000フィート (14,000 m)で高度25,000フィート (7,600 m)における最大航続距離12,000マイル (19,000 km)

という超長距離爆撃機の設計コンペを1941年の4月11日に開示したが、これらは短期的には実現困難であることが分かり、8月19日には

巡航速度240?300マイル毎時 (390?480 km/h)

最大航続距離は10,000マイル (16,000 km)、10,000ポンド (4.5 t)の爆弾を搭載しての戦闘行動半径4,000マイル (6,400 km)

運用高度40,000フィート (12,000 m)

へと引き下げられ、これに対応する爆撃機として開発された。

1941年10月16日ボーイングおよびノースロップとの競争提案の上、コンソリデーテッド・ヴァルティ(コンヴェア)社の案が採択され、開発が開始された。コンヴェア社はB-24の生産もあり、B-36の開発はスローダウンさせられたが、最初のモックアップが1942年7月20日に完成し、設計の調査に用いられた。USAACは対日戦に用いるために、1943年7月23日に100機の量産を命じた。USAACの計画では1945年8月までの配備を目指したが、試作機の完成はポツダム宣言受諾後の1945年8月20日であり、初飛行は1946年8月8日であった。
運用飛行するB-36J-5-CF 52-2225号機
(第11爆撃航空団所属、1955年撮影)

B-36の部隊配備は1948年6月に第7重爆撃航空団から開始された。

約10年の配備期間のあいだに、第28、15の各戦略空軍部隊で運用された。

この節の加筆が望まれています。 (2020年2月)

各型及び派生型

型生産機数
XB-361
YB-361
B-36A22
XC-991
B-36B62
B-36D26
RB-36D24
B-36F34
RB-36F24
B-36H83
RB-36H73
B-36J33


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