B-29_(航空機)
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義烈空挺隊の成功に気をよくした日本軍は、より大規模な空挺特攻作戦となる日本海軍によるサイパン島飛行場への剣号作戦や、日本陸軍による沖縄飛行場への烈作戦[注 3][130]を準備した。しかし義烈空挺隊から被った損害で日本軍による空挺特攻作戦を警戒していたアメリカ軍は、日本軍の空挺特攻作戦の準備が進んでいるという情報を掴むと、剣号作戦での海軍航空隊作戦機の出撃基地であった三沢基地を、8月9日と10日に艦載機で猛爆撃した。空挺隊員をサイパン島に空輸する予定であった一式陸上攻撃機25機は、巧妙にカムフラージュされていたにもかかわらず、アメリカ軍艦載機は航空機のみを狙い撃つ緻密な爆撃で18機を完全撃破、7機を損傷させて壊滅状態にした[131]。輸送部隊の壊滅により作戦は延期を余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった[132][133][134]
名古屋への高高度精密爆撃

1944年11月24日の初空襲以降11回の東京近郊への爆撃は、心理的効果は大きいものの実質的な効果は少なかった。12月13日から開始された名古屋の航空機工場への爆撃では大きな効果を挙げた。12月13日のB-29の75機による空襲は8,000mから9,800mからの爆撃であったが[135]、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した[136]。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが[137]、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった[138]

ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げたが、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官ルメイは、中国で焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験を行っている。それは日本軍占領下の中華民国漢口大空襲であり、ルメイ指揮下の84機のB-29が500トンもの焼夷弾を漢口市街に投下し、漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰燼に帰して、漢口の市民(ほとんどが中国人)約20,000人が死亡した[139]。市街地への無差別爆撃の有効性を証明したこの爆撃により、アーノルドはルメイを高く評価することとなった[140]

漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、ハンセルの後任の参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した[141]。ハンセルはアーノルドに我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたいと手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、航空機工場は引き続き最優先の目標であるが、この実験的な焼夷弾攻撃は「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは不承不承、12月22日の出撃では78機のB-29に焼夷弾だけを搭載して出撃させた。爆撃高度は8,000mから9,800mと引き続き高高度で、今回の目標であった三菱の発動機工場は雲に覆われており、レーダー爆撃したがほとんど効果はなかった。また日本軍の戦闘機による迎撃も激烈で3機のB-29を失い、焼夷弾爆撃は失敗に終わった[138]。翌1945年1月3日にも焼夷弾による実験攻撃が97機のB-29により名古屋に行われたが、効果は少なく、日本側に空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった。これは大きな誤りであったことがのちの名古屋大空襲を含む大都市への無差別焼夷弾爆撃により明らかになる[142]

年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えており、ハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにした[143]
作戦方針の変更1944年10月、中国の飛行場での中国・ビルマ・インド戦域アメリカ陸軍司令官ジョセフ・スティルウェル中将(左)と第20爆撃集団司令官カーチス・ルメイ少将(右)

1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった[143]。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った[144]。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された。アーノルドはルメイの中国での働きぶりを高く買っており、このとき38歳であった若い将軍にアーノルドは「自分のすべて」であったB-29を任せることにした[145]。第20爆撃集団はルメイ離任後にはクアラルンプールに司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している[146]

ルメイが着任するまで、ハンセルの命令による高高度精密爆撃が継続された。1945年1月14日には名古屋の三菱航空機製作所がB-29の73機による再度の爆撃を受けたが、高い積乱雲があり全体的にもやがかかっていたのにもかかわらず爆撃成果は良好であった[147]。この爆撃に対しては厚木基地から駆けつけてきた、これまで多数のB-29を撃墜破し「B-29撃墜王」として国民的な人気者となっていた遠藤幸男大尉率いる第三〇二海軍航空隊の斜銃を搭載の「月光」11機が迎撃したが、指揮官の遠藤がB-29を1機撃墜した直後に他のB-29の集中射撃を受けて、乗機からパラシュート降下を図るも戦死し、第三〇二海軍航空隊司令官の小園安名大佐を嘆かせている。


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