耐久時間は延長されたが、エンジン発火の問題は最終的な解決までには至らず、第869爆撃団のH.W.ダグラスによれば「エンジンの火災は、大問題だった。マグネシウム合金部分が燃え出すと、もう手が付けられなかった。ある夜、私の機はプラットで訓練中に、衝突でエンジン火災を起こした。消防車が到着して、ありったけの消火液をかけたが、炎の勢いはちっとも弱まらなかった。」と回想している。B-29クルーの間ではエンジンが発火した場合「30秒以内には、火が消えるか、自分が消える!」という言い伝えがあったという[15]。太平洋戦争が終了し、基地のあるサイパン島から本土に向けて帰還するときも、1機が離陸直後にエンジン火災で墜落したほどであった[16]。
試作1号機の墜落から1944年9月までの試験飛行で合計19回のエンジン故障による事故が発生するなど、信頼性が抜群とまでは言えないR-3350であったが[17]、B-17と比較すると戦闘重量で2倍の約44,100 kgの巨体を、B-17より30 %増の速度で飛行させる出力を発揮し、最高速度で570 km/h、巡航速度で467 km/hという戦闘機並みの高速で飛行させることが可能となった[18]。機動性も極めて高く、試験飛行から日本への爆撃任務まで経験したパイロット、チャールズ.B.ホークスによれば、水平での加速や急降下速度でも戦闘機に匹敵したといい、アクロバット飛行も可能であったという。試作機が一緒に飛行していたF6Fヘルキャットの前で急上昇ののち宙返りをしてヘルキャットのパイロットを驚かせたこともあった[19]。エンジン出力は排気タービン過給器によって10,000 mでもほぼ変わりはなく、これにより高高度での飛行性能に劣る日本軍機による迎撃は困難になった[20]。 B-29には、当時のアメリカの最先端の電子装備が配備され、航法や爆撃任務に最大限活用された。初期型では、長距離航法としてAN/APN-4LORANが用いられ、のちにAPN-9が装備された。高高度爆撃と飛行に使用されたレーダーはAN/APO-13であり、直径80センチのアンテナは2つの爆弾倉の間に設けられた半球状のレーダー・ドーム内に設置され夜間爆撃用に使用される。一部の機体に設置されたより高度なAN/APO-7「イーグル」爆撃照準・航法用レーダーは、機体下部に吊り下げられた翼状のケースに収納された[21]。SCR-718レーダー高度計は爆撃のための詳細な高度測定と地形マッピングに使用された。またその計測データは偏流計のデータと合わされて、対地速度と針路を計算するのにも使用された[22]。 B-29では与圧室の採用により通常の爆撃機のように人が乗り込んで直接操作する方式の銃座は設置できないため、射手が集中火器管制を行って機銃を遠隔操作する方式をとった。B-29は5ヵ所(胴体上面の前後部、下面の前後部、尾部)に火器を備え、上部および下部銃塔には連装のAN-M2 12.7ミリ機関銃、尾部には同様のAN-M2 12.7ミリ連装機関銃に加えてM1 20ミリ機関砲 1門が装備された。ただし、20ミリ機関砲は作動不良や給弾不良などの不具合が多く、また、12.7ミリ機銃とは弾道特性や有効射程が異なるために照準上の問題があり、実戦投入後に撤去している機体が多い。現地改造で20mm機関砲 機体各所の連装12.7ミリ機銃の銃塔はそれまでの有人型と異なり中に人が入らなくてもよいため、高さの低い半球形となり、空気抵抗を小さくして速度性能を高めることに貢献した。ただし、小型で全高の低い銃塔は仰角はともかく俯角がほとんど取れないという難点もあり、全高を多少増したものが開発されている。また、機体前上方の防御に関して「連装機銃では火力が不足しており、有効な弾幕が張れない」という要望が出たために、B-29A-BNからはコクピット後方の機体前部上部に装備される銃塔は機銃を4連装として直径を増したものに変更された。多少大型になったとはいえ小型の銃塔に機銃を4基も詰め込んだため、連装のものに比べて旋回速度が遅い、射撃時の衝撃で故障が多発するなどの問題が生じ、B-29A-BN block 40 A後期型からは内部構造や機構を強化した大型の流線型のものへと変更されている。 このようにB-29の防御火器は試作機が完成して実戦投入された後も改良が繰り返され、機首や機体側面に機銃を増備した機体や、銃塔を20ミリと12.7ミリの混載として大型化したものなども開発された。しかし、最終的にはいずれも採用されなかった。さらに実戦投入後、日本側の夜間の迎撃体制が予想外に貧弱なことや、1945年に入って硫黄島が攻略され、昼間任務での戦闘機による護衛が可能となったことによって、B-29の主任務が夜間低空侵入による都市無差別爆撃となった時期からは、爆弾と燃料の搭載量を増大させるために尾部の12.7ミリ連装銃座を除いて武装は撤去されるようになった。そして、製造当初から尾部銃座以外の武装を省いた型(B-29B)が生産されるようになった。 銃塔を制御する照準装置は5ヵ所に設置され、4ヵ所は専任の射手が、もう1ヵ所は機体前方に配置されている爆撃手が兼任で担当した。こうしたB-29の射撃システムにはアナログ・コンピューターを使用した火器管制装置(ゼネラル・エレクトリック社製)が取り入れられており[7]、機体後部の半透明の円蓋下に取り付けられた別名「床屋の椅子」に座った1人が射撃指揮官として上部射撃手を兼用して対空戦闘を指揮したほか、左側射撃手と右側射撃手の計3人が尾部と前部上部銃塔を除く残りの銃塔を照準器を使用して操作した。さらに戦闘の状況に応じて、銃塔の操作の担当を他の射撃手に切り替えることも可能であった[23]。照準器には、弾着点とそれを囲むオレンジ色の円で示されたレチクル
電子装備
武装
照準器と銃塔の動きを同期させるための制御はセルシンを使用するが、目標への方位角や仰角などの機銃の発射する弾の弾道計算を含むすべての計算は、機体後方下部の”ブラックボックス”に収められ装甲で保護された重量57kgのアナログ・コンピュータ5台によって行なわれるため[26][注 1]、それまでは非常に高い練度を必要とした見越し射撃が誰にでも可能となり、従来の爆撃機搭載防御火器よりも命中率が驚異的に向上、これによって敵機はうかつに接近できなくなった。このアナログ・コンピュータは当初生産が少なく、急遽ゼネラル・エレクトリック社に大量生産の指示がなされた。技術者も総動員され、昼夜を問わず寒風の中、露天に並べられたB-29の機内での設置作業に従事している[27]。
B-29のコックピット。機長席および副操縦士席の前(画像奥側)、ガラス張りの機首の最先端部が爆撃手席。
B-29の航空機関士席。軍用機としては初めて航空機関士が搭乗し機上作業が分業化された。
B-29の後部爆弾倉内から後部与圧室を望む。半球状の圧力隔壁を隔て、与圧区画と非与圧区画が分けられる。上部のドラム缶のように見える物が、操縦室と胴体後部を繋ぐ交通パイプ。乗員はこの中を這って移動した。
機体前部と後部を繋ぐ交通パイプを這って移動するB-29クルー。内張りや、機体の前後を結ぶ配線も写っている
B-29機体前方下部の銃塔と、その後ろの爆弾倉。銃塔は集中火器管制射手が遠隔操作した。
エンジン整備中のB-29 エンジン本体と排気タービンの位置関係がわかる。