B-29_(航空機)
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B-17までの従来の軍用機は、操縦席の計器盤に飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器が取付けられており、パイロットは飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器類を監視しなければならなかったが、B-29ではそれらが全て航空機関士の前に置かれ、パイロットは飛行に専念することができるようになり、飛行機操縦の分業化が図られている[7]
機体

従来の飛行機では高空で機内の気圧・気温が低下するため酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要だが、B-29は高度9,000 mで高度2,400 m相当の気圧を維持することができた。これはボーイング307の技術を応用し、毎分11.25 kgの加圧能力を持つ与圧装置を設置したことによる[8]爆弾倉を開閉する必要から、B-29では機体前部の操縦室と機体後部の機関砲座を与圧室とし、その間を直径85 cmの管でつなぎ、搭乗員はこの管を通って前後を移動した。被弾に備えて酸素ボンベも設置された。機内冷暖房も完備され、搭乗員は通常の飛行服のみで搭乗していた[9]。撃墜されたB-29乗員の遺体を日本側が回収した際、上半身Tシャツしか着ていない者もいるほど空調は完備されていた。それを知らない日本側は搭乗員に防寒着も支給できないとし、アメリカもまた困窮していると宣伝を行った。機体は軽量ながら強靭な装甲板に覆われて防御力も高かった。日本軍の戦闘機や対空砲火で無数の弾痕や高射砲の破片痕が開き、中にはそれが機体上部から下部に達するような大穴であったり、尾翼の大半が破壊されたりしても、マリアナ諸島の飛行場まで自力で帰還できた。また、このような大きな損傷を受けても修理を経て再出撃できる整備性があった[10]

重量はB-17の2倍となったが、翼面積はB-17の131.92m2に対してB-29は159.79m2と21%増に留まり、翼面荷重はB-17の約2倍となった。翼面荷重が増加すると着陸時の速度が高速となってしまうが、フラップを長さ10mの巨大なものにすることにより、着陸速度を減少させるだけでなく離陸時の揚力も増加させている。そのためにB-29の主翼は縦横比(アスペクト比)が大きな、細長く空気抵抗の少ない形状となった。垂直安定板の前縁には防氷装置も設置された[11]。空気抵抗を極限まで減少させるため、機体には外板を接合するリベットに沈頭鋲を使用したり、機体との接合部には重ね合わせせずに電気溶接で直接接合させている[8]
エンジン

B-29はライト社が開発した強力な新型エンジン、ライト R-3350を4発搭載していた。R-3350は空冷星型9気筒を複列化した二重星型18気筒で、2基のゼネラル・エレクトリック社製B-11ターボチャージャーが装着されており、ミネアポリス・ハネウェル・レギュレータ社製の電子装置で自動制御され、高度10,000 mまで巡航時で最大2,000馬力の出力を維持できた[12]。(離昇出力は2,200馬力)しかし、先進的な設計により、エンジンは過熱しやすくよくエンジン火災を起こすことになった。特に軽量化のために多用されたマグネシウム合金の可燃性が強いため、重篤な火災となることも多かった。試作第一号機のXB-29-BOもエンジン火災により墜落している[13]。当初はその信頼性の低さから、ライト(Wright)エンジンはロング(Wrong = 誤りだらけの意味)エンジンと呼ばれたり、火炎放射器などと揶揄されたが、のちに、シリンダー・バッフル(整流用のバッフル板)とカウル・フラップの設計変更により過熱をかなり低減させている[12]。運用当初はR-3350の交換時期を飛行時間にして200時間から250時間に設定していた。これは平均15回の出撃に相当したが、エンジンの冷却性能向上により750時間まで延長することができた。エンジン交換は熟練した整備兵により5時間30分で完了し、取り外したエンジンは本国に送り返されてオーバーホールされた。インドやマリアナ諸島の前線基地に飛行する際に、爆弾倉に1個の予備エンジンを搭載した[14]

耐久時間は延長されたが、エンジン発火の問題は最終的な解決までには至らず、第869爆撃団のH.W.ダグラスによれば「エンジンの火災は、大問題だった。マグネシウム合金部分が燃え出すと、もう手が付けられなかった。ある夜、私の機はプラットで訓練中に、衝突でエンジン火災を起こした。消防車が到着して、ありったけの消火液をかけたが、炎の勢いはちっとも弱まらなかった。」と回想している。B-29クルーの間ではエンジンが発火した場合「30秒以内には、火が消えるか、自分が消える!」という言い伝えがあったという[15]。太平洋戦争が終了し、基地のあるサイパン島から本土に向けて帰還するときも、1機が離陸直後にエンジン火災で墜落したほどであった[16]

試作1号機の墜落から1944年9月までの試験飛行で合計19回のエンジン故障による事故が発生するなど、信頼性が抜群とまでは言えないR-3350であったが[17]B-17と比較すると戦闘重量で2倍の約44,100 kgの巨体を、B-17より30 %増の速度で飛行させる出力を発揮し、最高速度で570 km/h、巡航速度で467 km/hという戦闘機並みの高速で飛行させることが可能となった[18]機動性も極めて高く、試験飛行から日本への爆撃任務まで経験したパイロット、チャールズ.B.ホークスによれば、水平での加速や急降下速度でも戦闘機に匹敵したといい、アクロバット飛行も可能であったという。試作機が一緒に飛行していたF6Fヘルキャットの前で急上昇ののち宙返りをしてヘルキャットのパイロットを驚かせたこともあった[19]。エンジン出力は排気タービン過給器によって10,000 mでもほぼ変わりはなく、これにより高高度での飛行性能に劣る日本軍機による迎撃は困難になった[20]
電子装備

B-29には、当時のアメリカの最先端の電子装備が配備され、航法や爆撃任務に最大限活用された。初期型では、長距離航法としてAN/APN-4LORANが用いられ、のちにAPN-9が装備された。高高度爆撃と飛行に使用されたレーダーはAN/APO-13であり、直径80センチのアンテナは2つの爆弾倉の間に設けられた半球状のレーダー・ドーム内に設置され夜間爆撃用に使用される。一部の機体に設置されたより高度なAN/APO-7「イーグル」爆撃照準・航法用レーダーは、機体下部に吊り下げられた翼状のケースに収納された[21]。SCR-718レーダー高度計は爆撃のための詳細な高度測定と地形マッピングに使用された。またその計測データは偏流計のデータと合わされて、対地速度と針路を計算するのにも使用された[22]
武装

B-29では与圧室の採用により通常の爆撃機のように人が乗り込んで直接操作する方式の銃座は設置できないため、射手が集中火器管制を行って機銃を遠隔操作する方式をとった。B-29は5ヵ所(胴体上面の前後部、下面の前後部、尾部)に火器を備え、上部および下部銃塔には連装のAN-M2 12.7ミリ機関銃、尾部には同様のAN-M2 12.7ミリ連装機関銃に加えてM1 20ミリ機関砲 1門が装備された。ただし、20ミリ機関砲は作動不良や給弾不良などの不具合が多く、また、12.7ミリ機銃とは弾道特性や有効射程が異なるために照準上の問題があり、実戦投入後に撤去している機体が多い。現地改造で20mm機関砲を12.7ミリ機銃に換装した機体もあり、尾部銃座が12.7ミリ機銃3連装となっている機体が存在する。

機体各所の連装12.7ミリ機銃の銃塔はそれまでの有人型と異なり中に人が入らなくてもよいため、高さの低い半球形となり、空気抵抗を小さくして速度性能を高めることに貢献した。ただし、小型で全高の低い銃塔は仰角はともかく俯角がほとんど取れないという難点もあり、全高を多少増したものが開発されている。また、機体前上方の防御に関して「連装機銃では火力が不足しており、有効な弾幕が張れない」という要望が出たために、B-29A-BNからはコクピット後方の機体前部上部に装備される銃塔は機銃を4連装として直径を増したものに変更された。多少大型になったとはいえ小型の銃塔に機銃を4基も詰め込んだため、連装のものに比べて旋回速度が遅い、射撃時の衝撃で故障が多発するなどの問題が生じ、B-29A-BN block 40 A後期型からは内部構造や機構を強化した大型の流線型のものへと変更されている。

このようにB-29の防御火器は試作機が完成して実戦投入された後も改良が繰り返され、機首や機体側面に機銃を増備した機体や、銃塔を20ミリと12.7ミリの混載として大型化したものなども開発された。しかし、最終的にはいずれも採用されなかった。さらに実戦投入後、日本側の夜間の迎撃体制が予想外に貧弱なことや、1945年に入って硫黄島が攻略され、昼間任務での戦闘機による護衛が可能となったことによって、B-29の主任務が夜間低空侵入による都市無差別爆撃となった時期からは、爆弾と燃料の搭載量を増大させるために尾部の12.7ミリ連装銃座を除いて武装は撤去されるようになった。そして、製造当初から尾部銃座以外の武装を省いた型(B-29B)が生産されるようになった。

銃塔を制御する照準装置は5ヵ所に設置され、4ヵ所は専任の射手が、もう1ヵ所は機体前方に配置されている爆撃手が兼任で担当した。こうしたB-29の射撃システムにはアナログ・コンピューターを使用した火器管制装置ゼネラル・エレクトリック社製)が取り入れられており[7]、機体後部の半透明の円蓋下に取り付けられた別名「床屋の椅子」に座った1人が射撃指揮官として上部射撃手を兼用して対空戦闘を指揮したほか、左側射撃手と右側射撃手の計3人が尾部と前部上部銃塔を除く残りの銃塔を照準器を使用して操作した。


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