4発機のB-17は頑丈で優れた安定性を持つ機体でもあるため、エンジンの一つや二つが止まっても機体や翼が穴だらけになってもイギリスまで帰ってきたものが多数あった(著名な例として42-3167号機がある)。ドイツ本土への侵攻では、撃墜されてしまうとそれだけ多くの搭乗員を失ってしまうため(脱出しても捕虜になってしまうため)、機体そのものはボロボロになっても貴重な人材を連れ帰ることができるという点は非常に重要だった。そのような特徴は多くの搭乗員に愛され、「空の女王」という異名も授かっている。また、B-24よりもB-17のほうが攻撃されにくかったから、乗員はB-17を好んだ[7]。
以上の特徴から、B-17はおもに都市への夜間爆撃を担当したイギリス空軍のランカスター爆撃機以上にドイツの継戦能力を削ぐ立役者となった。なお、B-17とランカスターの米英2大爆撃機は、第二次世界大戦中に各々約60万トンの爆弾を投下した。(後継機のB-29が日本へ投弾した量は約17万トン。)
アジア・太平洋戦線日本軍による真珠湾攻撃時にヒッカム飛行場で撃破されたB-17。オーストラリア国内の基地に展開するB-17。
B-17は主にハワイやアラスカ本土、アリューシャン列島、アメリカの植民地のフィリピンや同じ連合国のオランダ領東インド、オーストラリアに配備され、1943年頃まで活動した。
1941年12月8日に日本海軍によって行われた真珠湾攻撃においては、ヒッカム飛行場におかれていたB-17が日本軍の攻撃隊により地上撃破された。さらに攻撃中にアメリカ本土より飛行してきたB-17の編隊が、攻撃を行う日本海軍機と誤認され地上からの攻撃を受け、損傷した機がオアフ島内のゴルフ場に不時着している。またフィリピンのクラーク基地にいたあるパイロットが、「無塗装のB-17の外板の反射は、それが半ば隠されていてもおよそ110km離れたところからも見える」と指摘した[8]。このようなカムフラージュ手法の油断で開戦時にアメリカ軍は相手につけこまれることになったのである[8]。
1942年2月19日には蘭印作戦において、日本陸軍飛行第64戦隊・飛行第59戦隊の一式戦闘機「隼」は、バンドンの第7爆撃航空群への補充として飛行中であった2機のB-17Eとバタヴィア沖上空にて交戦した。B-17は2機の「隼」を旋回機関銃で撃墜するも1機(41-2503号機)が墜とされている。また攻撃を逃れバンドンへ到着したもう1機は日本軍の空襲により地上で焼失している[9]。
1942年5月から1943年10月にかけて行われたアリューシャン方面の戦いでは、アラスカ本土の基地に駐留するB-17がアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島に上陸した日本軍や、それを援護する日本軍の艦船に対する空襲を数度に渡り行っているが、さしたる被害を日本軍に与えることはできなかった。一方、南東方面ではポートモレスビーを主たる基地として出撃し、ラバウルやブイン等の日本軍根拠地に対する爆撃のほか、オーストラリア国内の基地を拠点に洋上哨戒にも活動した。
ガダルカナル島攻防戦に参加した第六海軍航空隊飛行隊長兼分隊長の小福田少佐は、「一般的にいってB-17とB-24は苦手であった。そのいわゆる自動閉鎖式防弾燃料タンクのため、被弾してもなかなか火災を起こさなかったことと、わが対大型機攻撃訓練の未熟のため、距離の判定になれず、遠距離から射撃する場合が多く、命中弾が得にくいからであった。(中略)撃墜はしたが、それは主として零戦がしつこく、しかも寄ってたかって敵機を満身創痍という格好にしたり、またわが練達の士が十分接近して20ミリ銃弾を十分打ち込んだり、または勇敢な体当たりによるもので、尋常一様の攻撃ではなかなか落ちなかった。(後略)」と語っている[10]。
B-17の対策は1942年初めに日本海軍が取りかかり、日本陸軍は12月末にB-17対策委員会を設け、鹵獲した数機のアメリカ軍機をこれに充てた。共に対策の第一は機銃の威力増強であった[11]。海軍の零戦は世界に先駆けて20ミリ機銃を採用しており、B-17程度の防御力なら一発で撃墜可能と考えていたが効果がないという報告があった。川上陽平海軍技術少佐によれば、調査の結果、これは威力不足ではなく、5メートルほどの標的での射撃訓練を受けたパイロットが大型で尾部に防御火力を持つ四発重爆に対して、照準器の視野にあふれるため、相当接近したと錯覚して有効射程外から射撃して退避していることが原因であったという[12]。
当時、搭載されていた20ミリ機銃でも威力不足と判断した日本海軍は30ミリ機銃の開発を決定し、1942年末には二式30ミリ機銃の試作品が完成し、1943年7月にはこれを装備した零戦がラバウルに送られ、アメリカ軍の大型航空機を一発で大破させた[13]。