オアフ島上空を飛行するB-10B-MA
(第23爆撃飛行隊
マーティン B-10(Martin B-10 )は、アメリカのマーティン社が開発し、アメリカ陸軍航空軍などで運用された爆撃機。アメリカ陸軍航空軍が採用した初の全金属製単葉爆撃機である。
B-12、B-13、B-14、A-15、O-45といった派生型もあるが、設計上はあまり差異が見られない。 B-10はマーチン社の自主開発機として、1930年より開発が開始された。開発当初は社内名で123型と呼ばれていた。胴体内に爆弾槽を設けた全金属製の双発機で、当時としては斬新なスタイルだった。 原型機は1932年3月より陸軍航空隊において試験が開始された(この時の機体名はXB-907であった)。原型機は最高速度317 km/hを記録する性能を示したため、1933年にYB-10として48機が発注された。YB-10が15機(1機は排気タービン過給機試験用)生産された後、残りはエンジンを強化したYB-12(32機)やXB-14(1機)に変更された。 量産型の納入は1934年半ばよりはじまり、パナマやハワイ諸島の部隊に配属された。生産は1937年初めまで続き、121機(118機とする書籍もあり)生産された。しかし、就役後まもなく旧式化してきたため、1939年頃にはアメリカ陸軍の第一線から退いた。 本機は1936年に輸出許可が出たため、各国に輸出された。輸出型は社内名称で139W型と呼ばれた。本機を最も多用したのはオランダで、オランダ領東インド=後のインドネシアを中心に100機以上を配備した。また、アルゼンチン、中華民国、トルコ、タイなどにも輸出された。中国では、「馬丁式重轟炸機(馬丁はマーチンの音訳)」と呼ばれた。 日中戦争中の1938年(昭和13年)5月19日、中華民国空軍に所属する2機の139WC(B-10B)が寧波の基地から日本の九州上空に飛来し、鹿地亘作成によるビラを散布した。当初は、フランス人義勇パイロットの操縦で鹿児島に焼夷弾を投下する計画であったが、重量と航続距離の関係で往復できないために却下され、ビラ投下にとどまったが、日本本土に敵国の軍用機が侵入した史上初の事例となった。 第二次世界大戦開戦時には既に旧式化していたが、オランダに輸出された機体はアメリカ機として初めて大戦に参加した機体になった。1942年(昭和17年)には、フィリピンに配備されていたアメリカ軍機の一部が完全な形で大日本帝国陸軍に鹵獲され、その一部が日本本土に輸送され、試験に使用された後に羽田飛行場などで一般展示された。 マーティン社が試作機として計画したもので、XB-10の前身[2]。 陸軍航空隊向けの生産型。計165機製造。
概要
開発
生産
輸出1942年に撮影されたオランダ軍で使用される本機
爆撃を行う本機
オランダ軍にて編隊飛行を行う本機
オランダ軍にて編隊飛行を行う本機2
諸元
全長: 13.63 m
全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m
翼面積: 63.4 m2
全備重量: 7,460 kg
エンジン:ライト R-1820-33 空冷9気筒 775hp ×2
最大速度: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
武装
爆弾1,050 kg
7.62mm機銃 ×3
乗員 4名
各型
123
XB-907
米陸軍によって評価時に与えられた123の名称[2]。開放式操縦席で、2基のSR-1820-Eを動力としていた。1932年4月に納入。
XB-907A
XB-907を修正したもの。マーティンはさらなる運用試験のために米陸軍に戻した[1]。翼幅が拡大され、エンジンもR-1820-19が搭載されている。
XB-10
米国陸軍航空隊が購入した試作機。密閉式操縦席と砲塔、および単一支柱の降着装置を備えたもので、XB-907Aから修正された[3][4]。
139 / 139A / 139B
YB-10
139A。XB-10の増加試作機。乗員は3人に減らされ、エンジンはR-1820-25(675 hp / 503 kW)を2基搭載することになった。14機製造のうち、一部は一時的に水上機に改造され飛行試験が行われた[5]。
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