B級映画
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ただし蓮實重彦はまた「語の厳密な意味でB級映画は永遠に失われている」[21]としてもはや存在しないと述べていた。
BムービーとB級映画

そこで今日使われている低予算の「B級映画」と区別して、歴史的にアメリカの一時期にあった映画を原語のまま「Bムービー」と呼び、峻別する向きもある。「きらめく映像ビジネス」(集英社新書)の著者の純丘曜彰は「Bムービー」を一時期にアメリカで使われた用語として、これをB級映画と訳すことは誤解を招く表現であると述べている。そしてフィーチャーかBムービーかは純粋に上映形式の問題であって作品の出来とは関係は無いとして『フィーチャーでも駄作は数多く、Bムービーでも名作はいくらでもある』と述べている[22]。そして人気のあるBムービーは、本編のフィーチャーの当たり外れのリスクを抑えて映画館に安定した観客動員をもたらしたとして、低予算で早撮り、ワンパターンで似たり寄ったりだとしても、そのマンネリにこそ親しみがあり、健全なエンターティメントであるとしている。ただし、純丘曜彰はジョン・ウエインのB級西部劇やボブ・ホープなどの珍道中シリーズを例に挙げながら、日本のプログラム・ピクチャーの例として、いわゆる『社長』『駅前』『若大将』『無責任』のシリーズものや、『座頭市』『寅さん』もBムービーの範疇であるとしている[23]
B級映画の歴史(日本)

ところで日本映画では、歴史的にB級映画という言葉は使われず、その概念もなかったと言われるが、戦前における新興キネマ大都映画などは当時でもB級の三流映画と言われていた。ただもともと会社が小さくて、低予算で早撮りで製作するしかない状況の中での映画作りであり、アメリカのように同じ会社でA級とB級とに区別するようなものでは無かった。

しかし、戦後になってアメリカと同じように区別された映画がかつて存在した。それは全くアメリカと同じように二本立て興行の実施に際して生まれた映画である。
松竹のシスター・ピクチャー

1952年まで日本映画の興行は一本立てで、二本立てを行う映画会社は無かった。しかし興行する映画館では戦後の復興が進んで、映画館も活況を呈してきた頃から、二本立てを望む声は多かった。いわゆる一番館では出来なくても二番館から下の館では、違う映画会社の作品を組み合わせて二本立てで興行を行う映画館も出てきていた。しかし映画会社は過当競争と作品の質的低下、製作費の高騰などを恐れて躊躇していたが、1952年4月に当時の映画業界のトップであった松竹が二本立て興行に踏み切り、その際にアメリカと同じく1本は長編、もう1本は40?50分の中編として映画を製作し、この中編映画を当時松竹はSP (シスター・ピクチャー) と名付けて、4月10日に西河克己監督、佐田啓二幾野道子主演の「伊豆の艶歌師」を長編物「雪之丞変化」と同時上映で実施した。これが当時の松竹SP第1号で上映時間は45分であった[24]。松竹はこのSPの製作にあたり監督や俳優のトレーニングの場とし、また二本立てを行うことによって契約館を増やし、映画館側が他社の作品と抱き合わせでの二本立て興行を阻止する狙いがあった。その後に小林正樹監督、石浜朗小園容子主演で「息子の青春」(45分)、野村芳太郎監督、同じ2人の主演で「鳩」(45分)などが公開されている。小林正樹と野村芳太郎はその翌年に本来の長編物(フューチャー)の監督になった。SP映画は新人の育成には大きな成果があり、後に大島渚[25]山田洋次[26]もこのSP作品の監督を経験するところから本格映画でのデビューを果たしている[27]。しかし、興行面での契約館の増加は目標通りには進まなかった。それは松竹カラーとしての文芸作品が多く地味で、興行側からはそれほどの評価は得られず、やがて1954年に入るとSPを30?40分物に縮小した[28]
東映の娯楽版

この時に攻勢に出たのが東映であった。1954年には各社とも二本立て体制をとり始めたが、まだこの時期は新作で完全長編二本立てではなく、試行錯誤の時期であった。東映は1951年創立の後発会社でこの時期は松竹・大映についで業界3位であった。興行側が強く二本立てを望んでいることで、そこで東映は本編(フューチャー)1本に「東映娯楽版」という活劇でしかも三部作として売り出し、月形龍之介大友柳太朗主演の「真田十勇士」[29]、他に「謎の黄金島」「少年姿三四郎」などをおよそ40?50分前後で、本編に付けて上映して、しかも三部構成の連続物なので次回もその続きを見るために観客を呼び込むなどして、この娯楽版には「雪之丞変化」も東千代之介主演の三部作として製作した。そしてこの娯楽版から「笛吹童子」の三部作が製作されて、第1部「どくろの旗」45分、第2部「妖術の闘争」44分、第3部「満月城の凱歌」57分がそれぞれヒットして主演の中村錦之助を一躍スターに押し上げた[30]。翌年正月には「紅孔雀」五部作が公開されて、本編の片岡千恵蔵の多羅尾伴内シリーズ「隼の魔王」よりも人気を呼んだ。

この娯楽版の狙いは、三部構成にすれば全体は120分を超す長編物であり、内容において本編と変わらない当時の実質A級映画であったことである。そしてまだデビューしたばかりの若手俳優を使い、しかもここから東千代之介、中村錦之助、大友柳太朗などその後の東映時代劇を支えるスターが育っていった。この少し後には連続物でなく独立した映画も製作して、当時デビューしたばかりの高倉健が「電光空手打ち」「流星空手打ち」などの1時間足らずの作品で主演を演じている[31]。この東映娯楽版が松竹SPと違って、本編の添え物ではなく、実質は観客を映画館に引き寄せる力になったことで、東映は東映作品だけを上映する契約館を増やし、やがて東映が映画業界のトップに躍り出ることになった。


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