B・A・R
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B・A・Rエントリー名ブリティッシュ・アメリカン・レーシング(1999年)
ラッキーストライク・BAR・ホンダ(2000年 - 2005年)
チーム国籍
イギリス
チーム本拠地 イギリス ノーサンプトンシャーブラックレー
主なチーム関係者クレイグ・ポロック
エイドリアン・レイナード
デビッド・リチャーズ
ニック・フライ
主なドライバー ジャック・ヴィルヌーヴ
ジェンソン・バトン
ミカ・サロ
オリビエ・パニス
佐藤琢磨
アンソニー・デビッドソン
以前のチーム名称ティレル・レーシング
撤退後ホンダ・レーシング・F1チーム
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度1999 - 2005
出走回数118
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズ
タイトル
0
優勝回数0
通算獲得ポイント227
表彰台(3位以内)回数15
ポールポジション2
ファステストラップ0
F1デビュー戦1999年オーストラリアGP
初勝利-
最後のレース2005年中国GP
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B・A・R(ビーエーアール)は、かつて存在したイギリスF1コンストラクター。1999年から2005年までF1世界選手権に参戦した。当初はチーム名をブリティッシュ・アメリカン・レーシング (British American Racing) とし、2003年からB・A・Rに改称した。「BAR」もしくは「B.A.R」と表記される場合もある[1]

2005年末に本田技研工業がチームの全株式を取得したため、2006年よりコンストラクターとしてF1参戦を再開したホンダF1に移行した。
歴史
チーム発足ジャック・ヴィルヌーヴ

チーム発足への流れは、ジャック・ヴィルヌーヴCARTでチャンピオンを獲得した1995年に始まる。ヴィルヌーヴの個人マネージャーを務めていたクレイグ・ポロックと、ヴィルヌーヴが所属するチーム・グリーンにシャシーを供給していたレイナード、プレイヤーズブランドでチームを支援していたインペリアル・タバコの営業部長トム・モザーの間で、F1チームを設立する意見が交わされた[2]1996年、モザーがブリティッシュ・アメリカン・タバコ (British American Tobacco, BAT) のスポンサーシップ総責任者に就任し、資金提供を約束したことで、プロジェクトは実現に向けて動き出す[2]

1997年11月、ポロックは資金難にあったティレルを買収することを発表。1998年はティレルのままで参戦し、翌1999年からチーム名をブリティッシュ・アメリカン・レーシング(コンストラクター名はBAR)に変更した。BAT、ポロック、レイナードの3者が株式の共同所有者となり、ポロックがチーム代表に就任。BATが5年間で3億USドル(当時の為替レートで360億円)[2]という巨額の予算を計上し、レイナードがシャシー設計を担当した。チームはティレルの施設やスタッフを引き継がず、シルバーストン近郊のブラックリーに新ファクトリーを建設し[3]、既存チームのスタッフへヘッドハンティングを行って人材を集めた。エースドライバーには、当然のことながら1997年のF1チャンピオンドライバーであるヴィルヌーヴを迎えた。

「チーム・ヴィルヌーヴ」ともいえる誕生経緯、以前から噂されていたレイナードのF1進出の実現、世界第2位のタバコメーカーの全面支援など、チーム発足当初から話題性には事欠かなかった。一方、「初年度から優勝を狙う」という宣言やマシンのカラーリング問題(後述)など、ルーキーチームらしからぬ態度が批判や中傷を招くことになった。体制構築に際しては、経験値や開発時間などの既存のチームとの差を埋める方法を模索したが、新興チームとしての苦労が伴った。
1999年

参戦初年度はレイナードのマルコム・オースラーを中心に設計された01に、ルノーのカスタマー仕様であるスーパーテックV10エンジンを搭載。元F1チャンピオンのヴィルヌーヴと元国際F3000選手権チャンピオンのリカルド・ゾンタがレギュラードライバー、パトリック・ルマリエがテストドライバーという体制で出発した。

1999年はチーム力・マシン性能など、あらゆる面でF1の厳しさを学ぶシーズンとなった。レイナードはフォーミュラカー・コンストラクターとして参戦したすべてのカテゴリで初戦に優勝するという「デビューウィン伝説」を誇っていたが、量販シャシーとF1マシンでは勝手が違った。また、1997年のルノーワークスエンジン最終型をモディファイした実質2年落ちのスーパーテックエンジンは、技術革新のスピードが速いF1の世界ではすでに競争力を失っていた。ドライバーはエンジンのパワー不足や振動などの問題を指摘し、運転しにくい上に車体に負担がかかり、さまざまな悪い影響が出ていると語った。

エースドライバーのヴィルヌーヴは予選トップ10に7度食い込んでみせたものの、開幕戦から11レース連続リタイアという不名誉な新記録を残してしまった。ゾンタはF1デビュー2戦目のブラジルGPで負傷し、続く3戦を欠場。この間、F1浪人中のミカ・サロが代役出場し、サンマリノGPで記録した7位が、チームの年間最高成績となった。ベルギーGP予選ではゾンタ、ヴィルヌーヴとも超高速コーナー「オー・ルージュ」で相次いで大クラッシュを喫し、マシンを大破させた。

シーズンを通じてマシンの信頼性不足に悩まされ続け、2台で合計31回出走したうち、完走扱いは10回しかなかった(2台揃ってチェッカーを受けたのは日本GPのみ)。優勝どころか年間通じて1ポイントも獲得できず、資金難にあえぐミナルディにさえ遅れをとり、コンストラクターズランキング最下位に甘んじた。
2000年ホンダエンジンを搭載した002

2年目となる2000年はスーパーテックとのカスタマー契約を解消し、F1第3期活動を開始するホンダからワークスエンジンの供給を受けることになった。ホンダは当初予定していたフルコンストラクターとしての参戦計画を撤回し、車体の共同開発まで関与できるパートナーとしてBARを選んだ。ドライバーラインナップは前年と変わらず、ダレン・マニングがテストドライバーに加わった。日本GPにゾンタに代わり高木虎之介をスポット起用する予定だったが、契約がまとまらず断念している。

開幕戦は2台揃ってポイントを獲得。ヴィルヌーヴは予選でトップ10内に定着し(イタリアGPでは予選4位)、決勝では4位4回を含めて7戦で入賞した。シーズン合計20ポイントを獲得し、コンストラクターズランキングは5位に浮上した(4位のベネトンと同点)。
2001年003を駆るヴィルヌーヴ(カナダGP)

3年目となる2001年は、リカルド・ゾンタに替え前年マクラーレンのテストドライバーとして高い評価を得ていたオリビエ・パニスを獲得した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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