B&B_(お笑いコンビ)
[Wikipedia|▼Menu]

B&B
メンバー
島田洋七団順一
上方真一
島田洋八
国分健二
結成年1972年
活動時期1972年 -
芸種漫才
ネタ作成者島田洋七(島田洋八とのコンビ時のみ。それ以前は不明)
テンプレートを表示

B&B(ビー アンド ビー)は、日本漫才コンビ。広島県広島市出身の島田洋七(しまだ ようしち、1950年2月10日 - )が、相方を4度変えたコンビ名である[1]。本稿は特に岡山県笠岡市出身の島田洋八(しまだ ようはち、1950年2月13日 - )と組んだ三代目B&B[1]について詳述している。このコンビの東京進出が漫才ブームを誘発・点火させた[出典 1][注釈 1]

コンビ名「B&B」は、洋七が昔アルバイトしていた大阪宗右衛門町ディスコの店名を勝手に拝借したもので、特に意味はない[11]
経歴
初代B&B

1971年島田洋介・今喜多代に入門した島田洋七[出典 2]1972年桂三枝に紹介された団順一(現在の放送作家・萩原芳樹。以下萩原)と初代B&Bを結成[15]、洋七は島田洋一名で漫才師としてデビューした(以下洋七)[14]。コンビ名は師匠である島田洋介から「洋一・順一」と付けられたが、洋七はいかにも漫才師らしい名前がしっくりこず[16]、"今"という最新のネタをテーマに喋る仕事だからこそ、ネーミングも今風にしたいと洋七がバイトしていたディスコの店名を拝借して「B&B」と命名した[出典 3]。今でこそコンビ名をつけるのは当たり前だが、コメディNo.1がその先駆けで、当時はまだ珍しく[16]、師匠からはこっぴどく怒られて、「何の意味があるんや!」と怒鳴られ、苦し紛れに「ボーイ&ボーイの略です」と答えたものが、現在もコンビ名の由来として一部の文献に見られる[11]

初舞台となった名古屋大須演芸場のお客は5人だった。当初は萩原がリーダーで、洋七はツッコミ担当。弟子上がりで素人然の洋七に対し、学生時代から横山やすしや桂三枝の薫陶を受け、テレビやラジオのお笑い番組で前説を担当していた萩原が洋七に教え込む形でリードしていた[出典 4]。萩原は、ノンプロ芸人として『ヤングおー!おー!』(MBS制作)の前説を勤めていた頃、洋七からコンビを組みたいと誘われるが、ピン芸人としての自信を付けていたのと洋七の広島訛りが強かったため、まともな掛け合い漫才は出来ないとこれを無視。ヤングジャパンから誘いを受け正式にプロデビューの話が来たところ、番組を共同制作していた吉本興業から前説のクビを言い渡される。つまり、同社と契約することは吉本から圧力がかかり、今後の芸能活動に支障をきたすことになる。やむなく萩原は三枝と相談し、洋七の誘いを受け容れコンビを組むことで、萩原は吉本所属の漫才師になった。ただし、洋七の兄弟子(島田一の介)の年季明けがまだ済んでいなかったため、デビューまで時間がかかった。

後に漫才をそれまでの"8ビート"から"16ビートに上げたといわれる[19]、洋七のマシンガン漫才のルーツは、萩原に「面白いから見に行こう」と誘われて見た松竹芸能浮世亭ケンケン・てるてるであった[出典 5][注釈 2]

初舞台から11ヶ月で最優秀話術賞を受賞[17][注釈 3]。当時の芸能雑誌に若手の有望株として東京のマックボンボン志村けんいやま淳と組んでいたコントコンビ)とともに紹介される[22]など注目されていたが、萩原がそのころトップホットシアターに出演していたはな寛太・いま寛大の舞台を見て自信を喪失して失踪[出典 6]。こうして初代B&Bは消滅した[出典 7]

二代目B&B

1973年5月、洋七は上方真一(後の上方よしお)と二代目B&Bを結成[出典 8]。このとき真一は松竹芸能から吉本に移籍した[26]。なお、真一は「B&Bの片割れが新しい相方を探している」と聞き、以前から目を付けていた萩原と組めると思って申し込んだら、相方を募集していたのは洋七の方でガッカリしたという。洋七と西川のりおとは犬猿の仲で知られるが(不仲となった原因は後述)、真一はのりおの勧めでコンビを結成したという[26]

天性とも言えるスピード感溢れるしゃべりとセンスは、関係者の間で高い評価を受け、数々の賞を受賞[出典 9]1974年の『NHK上方漫才コンテスト』に出場してB&Bを客席で観たというザ・ぼんちの里見まさとは、「『もうええよ!』と言うくらいの大爆笑に次ぐ大爆笑で圧倒された。『負けた..』と正直にそう感じた」と述べている[30]

またこの頃、当時18歳の島田紳助がTVで洋七を見て衝撃を受け「島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう」と考え、同門入りした話は今や伝説となっている[出典 10]、B&Bの漫才を徹底的に研究した[出典 11]。紳助が見たときの洋七の相方はよしおである。

この二代目B&Bは結構売れて[11]1975年1月にはフジテレビバラエティ番組オールスター90分』に、学業専念で一時活動を休止したあのねのねに代わってレギュラーに抜擢された[出典 12]吉本興業所属のタレントが、東京キー局ゴールデンタイムでレギュラーを持つのはこれが最初ともいわれる[15]

広島出身の洋七としては、大阪も東京も関係なく[23]、どうせなら東京で勝負したいとよしおを誘うが、よしおが「怖い」と尻込み[出典 13]。また洋七が真一に楽器を持てと強要し大ゲンカとなって二代目B&Bは解散した[出典 14]

三代目B&B

洋七は漫才は諦めようかと悩んだが、花月劇場の幕引き、進行役をしていた
島田洋八を、また三枝が「あの人はどないや。」と薦めるので洋八を口説き1975年9月、三代目B&Bを結成[出典 15]。「七転び八起き」または「七転八倒」から、それぞれ洋七・洋八に改名。この命名は師匠の島田洋之介[15]。紳助は「洋七の相方が洋八になって戦力は落ちた」と述べている[36]

結成二年目の1977年には第6回上方お笑い大賞銀賞を受賞[24]。翌1978年には第13回上方漫才大賞奨励賞を受賞するなど実力が認められた。こと劇場内で笑いをとることにかけてはB&Bは、一、二を争っていた[37]

しかし当時は関西でも演芸番組が激減していた時代[出典 16]、B&Bが売れっ子になるという訳ではなかった[出典 17]。1978年に吉本に入社した大ア洋は「僕が吉本に入った頃は、やすきよさんの稼ぎで社員が食べられていた規模でした。漫才ブームの前で、劇場には『悪場所』の雰囲気がぷんぷん。滅び行くものを芸人さんと走りながら売っていくんやな、と最初に思いましたね」などと述べている[39]新野新は、B&Bを当時から高く評価し、「久方ぶりの上方漫才の収穫といわれながら、仕事がないという彼ら。B&Bくらい面白くなった漫才なら、どんどんテレビへ出て、もうとっくに茶の間のおなじみになっていいはずだが、時期が悪いといおうか、B&Bがテレビに出演することは、めったにない。それにしても、売り出す、ということはむずかしいことだと改めて思う」などと著書で述べている[出典 18]

1979年、「ヤングおー!おー!」(MBS制作)のチンチラチンコーナーにレギュラー抜擢されなかった事が原因で大阪の活動に限界を感じる(詳細は後述)。この事が最終的に決断した理由だが、頑なに東京行きを決行した理由を洋七は幾つか異なる説明をしている[13]。一つは当時の吉本興業には、やすしきよしWヤング中田カウス・ボタンといったそうそうたる売れっ子がズラリといて、どんなに賞を獲ったとしても、自分たちは野球でいえば二軍、いつかはおハチが回ってくるかもしれないが、ボクは待ちきれなかった[41]。また当時の大阪の若手実力漫才コンビの中では、ほぼ唯一の非関西圏の出身でもあり、大阪にいるあいだはヨソもん意識があって大阪に執着は無く、東京ならヨソもんの集まりだからいいだろうと考えたこと[出典 19]。「僕ら広島と岡山の出身やから、大阪で働くのも東京へ行くのも、根本的には違いない」[29]、「一部から認められているのだが、いっこうに売れない。生活だって楽ではない。そんな焦りから気分を変えるために東京に出た」[29]。他に星セント・ルイスが大阪の東西対抗というテレビ番組にやってきて、西の代表として迎え撃ったが、笑いでは自分たちが勝っていた。セント・ルイスの人気をみて、東京に行った方が売れるんじゃないかと思ったこと[出典 20]。また、大阪では結構売れっ子となっていたのに、郷里の広島や、祖母のいる佐賀ではほとんど知られておらず[出典 21]、「いくら売れても大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がない」と悟ったこと[出典 22]。他にも、この頃から付き合いのあったビートたけしから「東京に来いよ」と言われていた[43]Wヤングの平川幸男に「お前らなら売れる。東京に行け」と勧められたという話もある[47]。友人でもあり、ライバルでもあったザ・ぼんち・里見まさとは、「洋七は以前から、このままではいかん。東京に出たい、出たいと言っていた」と話している[48]。これらの理由から東京で活躍したいという野望が沸く[49]。東京進出を洋八に話すと二つ返事でOKと言った[23]。洋七は大阪の芸人が東京に進出したのは僕らが初めて」と延べている[23]。上京前日、洋七のアルバイト先のスナックを訪ねた親しい大阪新聞記者に洋七は、「俺は腕はある。自信もある。けど、どこで漫才やったらええねん」と吐露した[7]。これが当時の漫才の置かれた状況[7]。洋七の言葉は、当時の若手漫才師みんなの代弁だった[7]。上方漫才界のガスは十分に充満していた[7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:325 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef