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出典検索?: "Atari ST"
Atari STは1985年にATARIが販売したホームコンピューターである。
1985年から1990年代初期にかけて北米で広く普及した。STは公式には"Sixteen/Thirty-two"の頭文字。モトローラ68000の16bit外部バスと32ビット内部バスを意味している[1]。 モトローラのMPUであるMC68000をベースにしたパソコンであり、512KB以上のメモリと3.5インチフロッピーディスクを搭載。同様に68000を搭載していたアップル社のMacintoshやコモドールのAmigaに似たアーキテクチャを持つ。MacintoshはGUIを広く普及させた初めてのパソコンであるが、当時はまだ小さなモノクロの内蔵モニタしか利用できなかった。一方STはビットマップカラーのGUIを世界で初めて搭載した[2][3]。Shiraz Shivjiが設計した革新的なワンチップのグラフィックサブシステムは、初期のBBCマイクロや現在広く利用されている共有メモリシステムのように、CPUとクロックサイクル毎に交互にアクセスする方式を採用しており、システムメモリの全領域を共有できる。またMIDIをパソコンとして初めて標準でサポートした。 STの主な競合製品はアップルのMacintoshとコモドールのAmigaだった。ユーザーの間でプラットフォームの競争が発生し、特にメガデモについては特に活発だった。Amigaのカスタムプロセッサはゲームとビデオの市場で最先端と言われていたが、STは一般的に、安く、CPUが若干早く、ハイレゾのモノクロディスプレイに対応し、ビジネスやCADに理想的と言われていた。MIDIポートを標準で搭載していたため、タンジェリン・ドリームや90年代のイギリスのダンスミュージックを代表する808 Stateのようなバンドがコンサートで使用し、アマチュアかプロかを問わずミュージックシーケンサーや楽器のコントローラーとして成功した。一部の国、特にドイツでは、CADやDTPのための個人事業主用マシンとして確固たる地位を築いていた。 STは後のAtari TTやAtari Falconに世代を引き継いだ。 Atariがコンピュータ市場から撤退したことにより、TOSベースの互換機市場が出現した。多くのレトロコンピュータと同様にAtariはエミュレータを快くサポートしている。 コモドールの創設者であるJack Tramielは彼の息子をコモドールの幹部社員に就任させることを希望したため、コモドールの会長であり筆頭株主であるIrving Gouldと対立し、Tramielは1984年1月にコモドールを追われる結果となった。 Tramielはすぐに持株会社Tramel Technology, Ltd.を設立し、買収目的で様々な米国のコンピュータ関連企業を訪問した。Tramielは、元Atariのコンピュータ部門の部長だったRoger Badersherが設立したMindsetを訪問し、また「Amigaのスタッフには興味がないがチップセットには非常に興味があった」とAmigaのスタッフに発言していたはずのAmigaも訪問した。新しい低コストでハイエンドなコンピューターシステムを開発する業務のチーフエンジニアとしてTramielはShiraz Shivjiを抜擢した[4][5]。元々はNS32032の採用を想定していたが、ナショナル セミコンダクターの都合により商品の販売に必要な数量と価格でチップを供給できなかった。16/32ビットの68000より低速なNS32032でプロトタイプを開発していたことが結果的には幸いした。 コードネーム"RBP"(Rock Bottom Price ? 底値)プロジェクトは1984年4月から7月の間に設計を開始した。これは出荷版のSTとほぼ同じものだった。カスタムチップと市販パーツを組み合わせて設計されており、集積度の高い単一の基板であり、標準およびカスタムポートを全て備えていた。 Atariのコンピュータ部門はSTが世に出る前に、ANTIC(DMA)、CTIA/GTIA(Graphics)、POKEY(AUDIO)、PIA(I/O)のカスタムVLSIプロセッサを組み合わせた6502CPUベースのホームコンピュータを、1979年から1982年にかけてAtari 400(16K)とAtari 800(48K)として開発し販売しており、1982年にAtariは600XL/800XLシリーズとほぼ同じ設計の1200XLを発売した。Atariは1984年に発売するハイエンドコンピュータを複数準備していたがTramielがAtariを買収したときに開発中止となった。STがリリースされる数か月間前にAtariは8bitの6502を搭載したXLシリーズの次世代機として65XE(64K)と130XE(128k)を発売した。 Atari 2600やAtari 8ビット・コンピュータのカスタムチップを開発したオリジナルの開発者の一人であるJay Minerは、新しいチップセットを搭載したパソコンを作るのに必要な巨額の資金を得ようとAtari役員の説得を試みた。この提案が受け入れられなかったためMinerはAtariを去り、1982年にHi-Toroという小さなシンクタンクを設立して、新しいチップセットの開発に着手した。後にAmiga AmigaはLorraineチップセットの開発に必要な資金を使い果たし、当時ワーナーの傘下だったAtariは開発の続行に必要な資金をAmigaに提供した。その見返りとしてAtariはそのチップの1年間の排他的使用権を得られることになっていた。Atariはカスタムチップを使用した68000ベースのマシン(コードネーム"Mickey")を計画していたようだが、詳しいことは分かっていない。 Atariは当時一日に$10,000の損失を出しており、ワーナーコミュニケーションが売却を希望していた[7]。それを知ったTramielは、Atariの海外の製造拠点と世界中に広がる販売ネットワークを新しいコンピュータの販売に利用したいと考え、Atariに接触して協議を申し入れた。1984年5月から6月にかけてAtariとの断続的な交渉が進められた。TramielはAtariのコンピュータ部門(ゲーム機とホームコンピュータ部門を含む)を買収するための資金を7月には確保していた。 公式発表後にコモドールのほとんどの役員と研究者が退職してTramielの新会社Atari Corpに転職したため、Traimelの新しいコンピュータの発売を妨害する目的でコモドールは企業秘密を漏洩したとして4人のエンジニアを告訴した。 Atari Corpを設立したTramielはまず最初に、プロジェクトを棚卸しするため、Atariに残されたスタッフの大半を解雇し、現在進行しているほとんどのプロジェクトを中断させた。Tramielの代表者がAmigaとの契約書の原本を発見したのは7月から8月の上旬にかけてのことだった。 これによりAmigaは1984年7月30日にAmigaチップセットをAtariに提供するはずだったことが判明した。深刻な資金不足が続いていたAmigaはこの年の春に、Tramiel自身や、Amigaに早く取って代わろうと考えていたTramel Technology, Ltd.も含む投資家に対してさらなる資金提供を求めていた。Tramielが数日以内にAtariの買収を完了するべく裏で交渉が進んでいたと噂されていたちょうどその頃、Amigaはコモドールと協議していた。コモドールはAmigaをコモドールが完全に買収してAtariを含む他社との契約を完全に打ち切る方向で協議を進めた。AmigaはAtariにチップセットを提供する代わりに、コモドールがAmigaに代わって$500,000をAtariに提供した。これにより結果的にLorraineチップセットを完成させるためにAtariがAmigaにつぎ込んだ資金が返却される形になった。優位に立つチャンスとみたTramielは直ちにこの状況を利用して、コモドールの新しい子会社となる予定のAmigaを提訴し、間接的にコモドールに反訴した。TramielはAmiga及びコモドールがその技術を製品化できないようにする禁止命令や損害賠償の根拠を探した。この提訴は、コモドールがAtariを提訴して営業を妨害しようとしたことの仕返しとして、コモドールの買収や開発中のAmigaが無駄になるようにする企てであった。 Atarimuseum.comのCur VendelとAmigaのDeva Needles及びJoe Decuirとの直接対談によれば、Amigaチームは訴訟のために夏の間ほとんどずっと動けない状態だった。チップセット、Lorraineコンピュータシステム、チームの運命といったものの状況についての情報は知らされていなかった。後の1984年の秋にコモドールはLorraineプロジェクトの再開を宣言し、チップセットが改善され、OSの開発とハードウェアの設計が完了した。この遅延によりAtariはAmigaに数か月先行してAtari STをリリースでき、1985年9月の決算に売り上げを計上する余裕ができた。 このAtari対Amigaの訴訟ついては1987年3月に法廷外で内々的に和解した[8][9]。 本セクションは ⇒http://www.atarimuseum.com の許可を得てWikipediaに流用している。 ハードウェアの設計が完成に近づき、チームはOSの検討に入った。買収後まもなくマイクロソフトがTramielにWindowsの移植を提案したが、2年という納期は遅すぎると思われた。他の選択として、後にGEMとなったCrystalという新しいGUIベースのシステムを開発していたデジタルリサーチがあった。新しいOSを社内で開発する案もあったがリスクが高いため却下された。 デジタルリサーチは完全にインテル系のプラットフォームに依存していたため、Atariはデジタルリサーチの本社にチームを派遣し、Atariとデジタルリサーチのエンジニアが混在した"Monterey Team"を構成した。
概要
歴史
トラメルテクノロジー
Amigaとの提携
OS
Size:71 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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