Atari_7800
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Atari 7800

メーカーアタリ
種別据置型ゲーム機
世代第3世代
発売日 1984年5月
1987年
CPUカスタムMOS 6502
売上台数 115万台[要出典]
500万台[要出典]
後方互換Atari 2600
前世代ハードウェアAtari 5200
次世代ハードウェアAtari Jaguar
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Atari 7800(あるいはAtari 7800 ProSystem)は1984年にアタリから、1986年5月にアタリコープから発売された家庭用ゲーム機
概要

Atari 7800 はアタリの失敗作ともいえるAtari 5200にとってかわり、そして任天堂セガに対して再び優位に立つために設計された。このシステムでアタリは Atari 5200 の欠点の解消に取り組んだ。Atari 7800 にはシンプルなデジタルジョイスティックが付いており、Atari 2600 とほぼ完全な後方互換性を持ち、手ごろな値段(当初の価格は140USドル)で手に入れることができた。
歴史
市場での苦戦

当時、家庭用ゲーム市場で成功するには、業務用ゲームの移植が重要であるとされてきており、Atari 2600がインテレビジョンといった他社製品に対して優位に立てたのもそのためだった。

Atari 7800開発時、任天堂の議論の的になるやり方のために、アーケードゲームの開発者たちに7800向けに移植してもらうのに苦労したといわれる。任天堂がゲーム業界を再活性化させた際、ゲームの開発者たちは「任天堂のハード向けソフトを作ってから2年間は、他社の競合するハード向けの移植を行わない」といった、厳しいルールをまもったうえでライセンス契約を任天堂と結ぶことで初めてファミコン用ソフトを作ることができるようになった。[1]

任天堂が市場で成功したことにより、ソフト開発会社はファミコン向けのソフトの制作を優先させ、2年間は他社ハード向けの移植を行わないというルールを守った。その結果として7800やセガ・マスターシステムのソフトのラインナップは大きな損害を被った。

ファミコン用ソフトの中には、別のアーケードゲームの開発元から許諾を得たうえで製造されたところもあった。ファミコン用ソフトの製造元は他社機種への移植が制限されているが、元のアーケードゲームの開発者は複数の機種への移植が禁止されているわけではなかった。この盲点を利用し、7800版『マリオブラザーズ』、『ダブルドラゴン』、『戦場の狼』、『Rampage』, 『Xenophobe』、『』、『スパルタンX』の許諾が取れ、開発に至った。

ソフトウェア会社はファミコン用ソフトを開発する際任天堂と独占的協定をしていたため、Atari 7800用ソフトを開発するサードパーティーの会社は少数派だった。11のソフトが開発・販売され、Absolute Entertainment, アクティビジョン、 Froggoの3社は自社ブランドとして8つのソフトを発売し、残りはアタリが外注し、アタリのゲームソフトとして売り出された。
撤退

Atari 7800はアメリカ合衆国では1984年から1991年まで、ヨーロッパでは1987年から1991年まで発売された。1992年1月1日、アタリ・コープは Atari 7800, the Atari 2600および、8ビットコンピュータのシリーズ、Atari XEGSの製造を終了することを発表した。この時点で、北米における任天堂のファミリーコンピュータのシェアは 80%と独占状態だったのに対し、アタリ・コープのシェアはわずか12%だった[2] 。このように、任天堂のファミコンに売り上げの面で負けていたものの、アタリ・コープはブランド名や2600との後方互換性が大きくはたらいたことでこのゲーム機が売れたと考えており、実際ゲーム開発やマーケティングの費用を低く抑えたおかげで、大きな利益を得た。だが、7800によってアタリがゲーム市場を再び独占することはできなかった。
新たなる市場販売

2004年、アタリ(現在はInfogramesが所有)は、初めて復刻版を出した。この復刻版はAtari 7800とそのジョイスティックを模したミニチュアで、ソフトが内蔵されていた(7800用5本、2600用20本)。売り上げは好調だった一方、アタリは開発を担当したレガシー・エンジニアリングに、極端に短い期間での開発を要求したため、同社はAtari 7800のハードウェアを再現するのではなく、NES-On-A-Chipを使って復刻版を作らなければならなかった。その結果、復刻版は実際のアタリのゲーム感覚をうまく再現できていないとして批判された。

レガシー・エンジニアリングは後に別の7800に関する事業を委託されたが、市場販売にはいたらなかった。何百万もあるAtari 2600・7800用ゲームソフトの売れ残りをTramielsから手に入れたある再販業者が、古いアタリのソフトで遊ぶ新しいユーザー向けにシステムをリメイクして市場に売り出そうとした。しかし、プロトタイプができた後、その計画は打ち切りになった。
ハードウェア
グラフィック

Atari 7800のグラフィックは、MARIA(この名前はAtari 2600に用いられている映像・音声チップTIAを継承するチップであることを示すために付けられたもので、ティア・マリアとかけている)と呼ばれるカスタムGraphics Processing Unit によって生み出されている。Atari 7800のグラフィックにおける利点と欠点はしばしば論争になる。

MARIAは、ほかの第2、第3世代のゲーム機と違い、ゲームのプログラマーにとって対応の難しいものだった。MARIAは限られた数のスプライトをハードウェアで動かすのではなく、ディスプレイ・リストに書かれた多くのスプライトを動かせるようになっていた。すべてのリストにはグラフィックデータや色彩情報、座標位置を指示する装置の入ったスプライトがあった。同じディスプレイリストには自動的に適応する指示装置の入ったラスターのために使われていた。しかし、多量のスプライトを操作すると、直接間接かかわらずMARIAがCPUを止めるため、スプライトや背景をハードウェアで処理する他機よりも多くのCPUタイムを要してしまった。

MARIAには160もしくは320ピクセル幅に対応したグラフィックモードが有った。320ピクセル幅のモードを使えば理論上はNintendo Entertainment Systemセガ・マスターシステムに用いられている256ピクセル幅のものより高い解像度のゲームを作ることもできたが、MARIAの処理需要が激しく、一般には低い方の160ピクセルモードが使用された。

Atari 7800やそれに近いAtariのゲーム機は、当時は最も広いとされた256色パレットを使用していた。このうち同時発色できるのは25色までであったが、ハードウェアを特殊な方法で制御することにより、256色が同時にスクリーン上に出ているように見せているデモも存在した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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