Atari 2600
メーカーアタリ
種別据置型ゲーム機
世代第2世代
発売日 1977年9月11日
1983年5月10日(Atari 2800)
CPU6507
対応メディアロムカセット
売上台数 36万台[要出典]
2,354万台
3,000万台
前世代ハードウェアホーム・ポン
次世代ハードウェアAtari 5200
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Atari 2600は、米国アタリ社が開発し1977年にリリースした家庭用ゲーム機である。
マイクロプロセッサを用いたゲーム機であり、それまで一般的だったプログラムが固定されたゲーム機と異なり、前年1976年発売のフェアチャイルド・チャンネルF同様に、ロムカートリッジによりゲームソフトを交換できる方式のゲーム機として1977年に「Video Computer System」の名で発売された。発売時の価格は199ドル。当初は「Atari VCS」の通称で親しまれ[1]、後に「Atari 2600」に改称された。
最初のリリース開始から1982年11月までは、本体にジョイスティック2台とパドルコントローラ2台とロムカートリッジ1本が最初から同梱するかたちで販売された。付属したロムカートリッジは最初は:en:Combat
で[2]、その後、Namcoによって開発された『パックマン』を当機に移植した『Pac-Man』が同梱されるようになった[3]。本機には、業務用ゲームだった『スペースインベーダー』[4]が移植され、いわば最初期のキラーアプリケーションとなり[5]、さらに女性に人気のゲーム『パックマン』、『サーカス』なども移植し本体の販売台数を大きく伸ばし米国における家庭用ゲーム機産業を大きく成長させた。その一方で、加熱する販売がやがて業界内で判断ミスを生みロムカートリッジの過剰発注・過剰製造も引き起こし、のちにアタリショックと呼ばれる危機的状況もまねき、同国の家庭用ゲーム機産業を凋落させる現象も引き起こしたことでも知られる。 Atariはノーラン・ブッシュネルとテッド・ダブニー(en:Ted Dabney
歴史
業務機市場は競争が激化しており経営上のリスクが増していると判断したAtari社は、ふたたび家庭用ゲーム機に注力する決断をした。
なお1974年までにAtari社は、ブッシュネルとダブニーのアンペックス社時代の同僚2名スティーブ・メイヤー(Steve Mayer)とラリー・エモンズ(Larry Emmons)が設立したCyan Engineeringというエレクトロニクスの会社を買収しており、この2人がAtariの新しいゲーム機のアイディアを練るのを助けていた。家庭版の『ポン』をリリースする前から、Cyan Engineeringでメイヤーやエモンズの指揮のもとに働いていた技術者たちは、プログラム可能なマイクロプロセッサを使えばAtariがそれまで業務用機で提供してきたいくつかのゲームもプレイできる家庭用ゲーム機を実現できることに気づいていた。彼らはマイクロプロセッサを使えばゲーム機の設計を専用機よりずっと簡潔で強力なものものにできるはずだと考えた。だが、そのような目的に使える当時のマイクロプロセッサは1個あたり100ドルから300ドルもし、そのような価格のプロセッサを搭載しては家庭用ゲーム機として市場が許容するような価格帯を越えてしまう。それでAtariは、将来のゲーム機のためにモトローラ社の新規のプロセッサ6800を使うことについて交渉を始めた[9]。コードネーム「Stella」の最初のプロトタイプ
Atari社は1975年までにジョゼフ・デクイア(en:Joseph C. Decuir)というカリフォルニア大学バークレー校を卒業したばかりで自身でMOS 6502のテストを行っていた人物を雇い入れた。1975年に当機は「Stella ステラ」というコードネームで開発が開始された(Stellaはデクイアが乗っていた自転車のブランド名だった)。メイヤーとエモンズが開発したプロトタイプはデクイアによってデバッグされた。この試作機はブレッドボードレベルのグラフィック・インタフェースも含んでいた。そして2台目のプロトタイプ開発に着手し、Jay Minerがテレビに画像と音響を送るための集積回路をつくり(それをTelevision Interface Adaptor (TIA) と命名し)、この2台目のプロトタイプは1976年3月までに完成し、TIA、MOS 6507、ロムカートリッジのスロット、アダプタを含んだものになった。当機で採用された廉価版のCPUである6507やTIAや他のコンポーネントにはかなりの機能的な制約があったので、プログラマたちは当機のためにさまざまな工夫を駆使して当機の性能を引き出すべくゲームソフトの最適化をはかった[10]。