スカリーはジョブズをMacintosh部門から降ろすと決断し、1985年4月には取締役会から全会一致の承認を得た[89]。この決定に反発したジョブズは、スカリーが中国に出張する隙に彼を解任することを画策したが、スカリーはフランス法人トップのジャン=ルイ・ガセーから事前にジョブズの計画を知らされ、出張をキャンセルし重役会議でジョブズと対峙した[89][90]。会議では、その場に居たAppleの重役の全員がスカリーへの支持を表明し、その後取締役会もスカリー支持を表明し、ジョブズは1985年5月31日に全ての業務から外され、何の実権も持たない会長職を与えられた[89][91]。 1985年9月、ジョブズは当時所有していたAppleの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却し、NeXT社を創立した。それと同時にスカリー宛てに郵送で辞職願を提出し、会長職も辞任した。2010年の記事で、スカリーは一番後悔していることとして、ジョブズを辞任に追い込んだことを挙げている[92]。ウォズニアックもまた、別の事業を始めるため1985年前半に(ジョブズよりも先に)Appleを離れていた。その際、ウォズニアックはAppleがApple II部門を冷遇してきたことへの不満を表明し、会社が「過去5年間ずっと間違った方向に進んでいる」と述べた[93][94][95]。 ジョブズとウォズニアックが去った1985年、AppleはMacintosh向けにキヤノンと共同開発したレーザープリンターであり、出資先のアドビシステムズ(現・アドビ)が開発したPostScriptを搭載したLaserWriterを発売し[96][97]、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗いディザを表示させることなく、きれいなアウトラインで出力することを可能にした。また、アルダス社(現・アドビ)の開発したPageMakerとMacintosh、LaserWriterを組み合わせることで、DTPという市場を創造した[98]。精巧なタイポグラフィ機能を備えていたMacintoshは、DTP用コンピュータとして圧倒的な人気を博し、Appleは初期のDTP市場を事実上独占することに成功した[99][注釈 14]。 ジョブズに代わってMacintosh部門のトップに立ったガセーは、55パーセントの利益率という目標を意味する「55か死か(fifty-five or die)」というスローガンを掲げてMacintosh製品の値上げを実行し、1980年代後半のAppleで高価格・高利益率路線を推し進めた[100][101]。初期の32ビットパソコンの一つであり、高性能な代わりに高価格で販売された「Macintosh II」などの新型モデルは高い利益率を提供し、DTP市場での人気を背景に当初は売上高にも減少は見られなかった[99]。さらに、Appleは外部のソフト会社にMac用のソフト開発を説得する職種であるエバンジェリスト(宣伝部)を作り、ガイ・カワサキらを任命した。 スカリーは、Macintosh以外にAppleの柱となる製品が必要だと感じていた。スカリーはコンピュータの未来像としてKnowledge Navigator
ジョブズとウォズニアックの離脱
NewtonNewton MessagePad 2100(左)と初代iPhone(右)
一方、スティーブ・サコマンはガセーの許可を受け1987年ごろにはNewtonと呼ばれる次世代コンピュータ開発のプロジェクトを開始していた。スカリーはこのNewtonに自身のナレッジ・ナビゲータを感じ取り、開発に力を入れるようになっていった。
1990年、スカリーはMac OS互換機(後述)およびNewtonの方向性をめぐってガセーと対立することとなる。ガセーを辞職させたあとサコマンも辞任し、スカリー自身は技術者でないにもかかわらずAppleのCTO (最高技術責任者)に就任した。ラリー・テスラーがNewton開発責任者となり携帯情報端末へと方向転換を行って、1992年、CPU にARMを採用し、スタイラスによる手書き認識などを実現したPDA、Newton MessagePadを発表した。