Apple
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スコットは1977年2月からAppleでの仕事を始め、社員番号を入れた社員証を発行するなど、会社をより組織的にするための施策を実行した[62][注釈 4]。他方、ウォズニアックはApple Iの改良を着々と進めており、1976年8月末の時点で後継機となる「Apple II」のプロトタイプを完成させていた[60]

Apple IIは1977年4月16日にウェスト・コースト・コンピュータ・フェアで発表され、小売価格1,298ドルで発売された[63][64][注釈 5]。Apple IIの販売は当初から好調だったが、1978年7月に発売された専用フロッピーディスクドライブ「Disk II(英語版)」と、1979年10月に発売された専用の表計算ソフトVisiCalc」が大ヒットを記録し、Apple IIの販売台数が大幅に増加した[24]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1980年には設置台数で10万台、1984年には設置ベースで200万台を超え、Appleに大きな利益をもたらした。[要出典]
株式公開とApple III・Lisa.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}1980年に発売されたApple III。純正モニタのApple Monitor III(英語版)を上に載せている。1983年に発売されたLisa。当時としては先進的な機能を装備していたが、価格の高さから商業的には失敗した。

1980年12月12日、Apple Computerは新規株式公開(IPO)を行い、1956年に自動車会社フォードが行ったIPO以来となる記録的規模の資金調達を果たした[65][66]。このIPOにより、ジョブズは約2億5600万ドルの個人資産を手に入れた[67]

株式公開に先立つ1980年5月、Appleはビジネス向けに特化されたApple IIIを発表し、巨大企業IBMに商用コンピュータ市場で挑戦を仕掛けたが、4,340?7,800ドルという価格設定の高さと、ハードウェアの設計上の欠陥がわざわいし、Apple IIIは極度の販売不振に陥っていた[66][注釈 6]。他方、IBMは1981年8月にIBM PCを発表してパーソナルコンピュータ市場へ参入し、AppleとIBMの競争は激化した[69][注釈 7]

ジョブズは1979年12月にゼロックスパロアルト研究所(PARC)を見学しており[注釈 8]、そこで見たマウスによって操作される先進的なグラフィカルユーザインタフェース(GUI)に強い印象を受けた[68]。ジョブズは当時Appleで開発中だった次世代コンピュータ「Lisa(リサ)[注釈 9]」にPARCで目にしたようなGUIを実装することを決意し、設計への介入を強めたが、Lisaプロジェクトはジョブズの過剰な介入によって混迷することとなり、ジョブズはスコットら経営陣の判断で1980年9月にLisaの開発チームから外された[72][73][74]

1981年、ジョブズとの対立を深めたスコットは社長兼CEOを辞任することとなり、同年7月にはAppleを去った[75]。1981年3月からはマークラが暫定的にCEOとなっていたが[75]、ジョブズはスコットの後任としてマーケティングに優れた経営者を連れてくる必要に迫られた。1983年、ジョブズはペプシコーラからジョン・スカリーを引き抜いてAppleの新CEOに就けたが、スカリーを説得する際にジョブズが用いた「このまま一生、砂糖水を売り続ける気なのか?世界を変えるチャンスに賭けてみる気はないのか?」というフレーズはのちに有名となった[76]。他方、開発の遅れたLisaは1983年1月にようやく発売された[74]。Apple IIIの販売不振が続き、主力製品であるApple IIも次第にIBM PCにシェアを奪われる中で、GUIやマウスなど革新的機能を備えるLisaへのAppleの期待は大きかったが、9,995ドルという極端な高価格とソフトウェア互換性の欠如がユーザーを遠ざける結果となり、LIsaはApple IIIと同じく商業的な失敗作に終わった[70][77]


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