この項目では、テレビ東京にて放送された番組『ASAYAN』について説明しています。
前身である浅草橋ヤング洋品店については「浅草橋ヤング洋品店」をご覧ください。
その他のアサヤン(asayan)については「アサヤン」をご覧ください。
ASAYAN
ジャンルバラエティ番組
構成都築浩 ほか
演出タカハタ秀太(中期まで)
出演者ナインティナイン
(岡村隆史・矢部浩之)
永作博美
中山エミリ
ほか
製作
プロデューサー川原慎(第1回 - 1996年12月)
佐藤哲也(1997年1月 - 2001年3月)
桜井卓也(2001年4月 - 最終回)
編集前野勝義
制作テレビ東京
放送
音声形式ステレオ放送
放送国・地域 日本
放送期間1995年10月1日 - 2002年3月24日
放送時間日曜日 21:00 - 21:54
放送分54分
特記事項:
第1回から半年間は2部構成。#概要・来歴を参照。
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『ASAYAN』(あさやん)は、テレビ東京で1995年10月1日から2002年3月24日まで毎週日曜日21:00 - 21:54に放送されていたバラエティ番組である。部類はリアリティ番組になる。
「夢のオーディションバラエティー。」として、つんく♂や小室哲哉などのプロデュースで、モーニング娘。や鈴木あみ、CHEMISTRYなど数多くのアーティストやタレントを輩出した。 この番組のルーツは、1992年にスタートした『浅草橋ヤング洋品店』(以下『浅ヤン』)であり、それが1995年10月1日に『ASAYAN』にリニューアルされた。 当初は2部構成であり、前半は浅草キッドがメインMCの『浅ヤン』、後半はナインティナイン司会の小室哲哉プロデュースオーディションコーナー『コムロギャルソン』という流れだった。 1996年3月に総合演出のテリー伊藤が降板し、制作会社のロコモーションが撤退。同時に『浅ヤン』が終了した。翌4月にこれまでの構成から「コムロギャルソン」を拡大させ、ナインティナイン司会の「夢のオーディションバラエティー。」へと変貌していった。独特なカット割りとテロップに句読点を多用するタカハタ秀太[注釈 1]が総合演出を担当し、電通のプロデューサーが製作現場に常駐するなど、テレビ東京の番組でも大きなタイアップを採れることになった。 番組からは小室哲哉プロデュースで西野妙子やKABA.ちゃんもメンバーとして在籍していたdos、泣き虫デザイナーとして人気を得たごあきうえなどを生み出した。 そして、1998年につんく♂がプロデュースしたモーニング娘。が大いに話題を呼び、続けて番組内で結成された複数のグループと共にその後の「ハロー!プロジェクト」のプラットフォーム(基礎)を作った(最初はHello!というファンクラブであった)。以降ASAYANの手を離れてから「ハロー!プロジェクト」は多数のアイドルグループが所属する巨大プロジェクトへと成長し、国民的人気を獲得した。 また、アイドルだけでなく本格派ボーカリストも輩出しようとし、結果的にCHEMISTRYをブレイクさせることにも成功した。 松澤由美やmove(→m.o.v.e)のヴォーカル・yuri、清木場俊介、EXILEのATSUSHIとNESMITHなど、この番組でのオーディションで落選した参加者が、プロダクションやレコード会社などの制作者側に才能を認められて、別口でデビューした例は多い。また、モー娘。追加メンバーオーディションを倖田來未が受けていたといったエピソードもある。あるいは、FBIとしてデビューした大泉めぐみがのちにshelaとして再デビューしたり、route0のチェ・スヨンがのちに少女時代のメンバーになったというケースもある。 一時期、2000年12月の1か月間はBSジャパンでも遅れネットで放送されていたが、日本音楽事業者協会や音楽制作者連盟と著作権・肖像権問題で折り合いが付かず、打ち切りとなった。 2001年4月にタカハタが総合演出を降板したことにより、番組のタイトルロゴ・セット・ナレーターのすべてが一新され、ワイズビジョンが制作協力に加わった。 翌2002年3月24日に最終回を迎え、「浅草橋ヤング洋品店」時代を含めた10年間の放送に幕を閉じた。最終回では岡村隆史が「浅ヤン」時代の実験を思い出す場面もあった。番組終了はナインティナインの同意、説明もなく突然通達され、ぞんざいな扱いに岡村は激怒し「テレ東にはもう二度と出ない」と矢部に漏らしていたが、一方で『ちょこっとイイコト』への出演を何事もなく許諾し、矢部浩之を引かせていた[1]。
概要・来歴
エピソード
「開運!なんでも鑑定団」、「TVチャンピオン」、「クイズ赤恥青恥」、『ポケットモンスター』などと並ぶ、90年代後半を代表するテレビ東京の看板番組であり、放送日が国政選挙当日であっても時間を変更して通常通り放送された。
番組開始初期に「コムロギャルソン」のスタジオ(東京メディアシティ・K1スタジオ)で浅草キッドが登場して「浅ヤン」を放送し、観客や当時のナレーターだった川平慈英は騒然だった。
「浅ヤン」の企画「畠山みどり借金返済」にて、畠山みどりが「コムロギャルソン」のオーディションに応募するといった展開があったが、この一部始終は「浅ヤン」でしか放送されなかった。
1998年1月下旬は関東地方に大雪が降ったため、観客の安全確保により、観客なし・MC3人は椅子に座りハンドマイク(マイクキャップの形はフジテレビなどと同じキャップ)を持ちながら収録された。この日は「ヴォーカリストオーディションファイナル」の1次電話投票があった。なお、マイクキャップは丸型のキャップだった時期もあったが、MCがマイクキャップ付きのマイクを持ったのは「コムロギャルソン」後期と永作中期まで続いた。
1999年12月5日のモーニング娘。メンバーの石黒彩脱退では、通常のスタジオではなく別のスタジオで観客なしで収録した。また、この日の深夜の「TXNニュース」のラストでも紹介された。なおこの番組で芸能ニュースを報じたのは稀である。
1999年には収録中にナインティナインの岡村隆史が(「太陽とシスコムーン」新展開発表前)肩に止まったハエを追い払おうとしたところ右肩から転落し、右肩を骨折した事故があり、岡村復帰までマルチは岡村の顔アップ画像を写した。
モーニング娘。が絶頂期を迎えた頃、2000年4月2日から9月10日までは、『ハロー!モーニング。』の後にこの番組の再放送(1週遅れ)が行われていた。また、10月1日から終了まではこの番組の後に『期間限定!ピカピカ天王洲LIVE』→『MUSIX!』が放送されていた[注釈 2]。
川平慈英のこの番組におけるナレーションでの決まり文句「いいんです!」は兄のジョン・カビラが都並敏史とのやり取りの中で使っていたのを川平が拝借したものである。ちなみに、都並は読売ユース時代のチームメイト。
後にも先にも最もギャラの良かった仕事だったと岡村が述べている[2]。