ARB_(バンド)
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ARB
出身地
日本
ジャンルロック
パンク・ロック
ポップ・ロック
オルタナティヴ・ロック
ハードロック
ブルースロック
ビートロック
グラムロック
活動期間1977年 - 1990年
1998年 - 2006年
2018年
レーベルビクターインビテーション(1978年 - 1990年)
ユニバーサルビクター→ユニバーサル ポリドール(1998年 - 2002年)
M&I COMPANY(2003年 - 2006年)
事務所シンコー・ミュージック
ARB OFFICE
公式サイト ⇒www.arb-tamashii.com

メンバーKEITH
内藤幸也
EBI

旧メンバー石橋凌
田中一郎
宮城伸一郎
エンマ
野中SANZI良浩
斉藤光浩
ジャン=ジャック・バーネル
岡部滋
白浜久
浅田孟

ARB(エーアールビー)は、日本のロックバンド
概要

バンド名「ARB」は、Alexander Ragtime Bandのイニシャルを取った。アーヴィング・バーリンの『Alexander's Ragtime Band』からの引用。当初は「アレキサンダー・ラグタイム・バンド」とも名乗っていたが、3枚目のアルバム『BOYS&GIRLS』発売時より、「ARB」を正式名称とすることになった。

1977年春に結成。翌1978年にシングル「野良犬」でデビュー。1979年にアイドルとして売り出そうとした事務所と対立して独立。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1980年代に入るとめんたいロックの第二世代[要出典][注 1]として注目を浴びる[要出典]。戦争や労働者、社会の在り方などを主題においた曲を数多く発表したのが特徴であり、社会派バンドとも呼ばれた。なお、労働に関する曲は「Work Song」と呼ばれ、ARBの代名詞のひとつとなっている。

歌詞は、サンハウスの菊(柴山俊之)が手がけた数曲と、最初のアルバムの数曲を除き、ほぼ全てを石橋凌が作詞していたが、白浜久が在籍した時期はクレジットを「Ryo&Hisashi」としており、白浜が作詞した曲もあった。作曲は、石橋と各時期のギタリスト、ベーシストによって行われた。ギタリストによってバンドサウンドの方向性が変化するため、所属したギタリストが変わる毎に「第○期」という表現が用いられていた。

1990年にボーカルの石橋凌が俳優に専念するために10月27日の国立代々木第一体育館での公演をもって解散。1998年に復活。2006年3月には石橋がバンドから脱退。ARBとしては再び活動停止とアナウンスしているものの、石橋は解散とアナウンスしている[2]
メンバー

第1期(1977年 - 1983年)

1 
石橋凌(Vo)、田中一郎(G)、KEITH(キース、Dr)、宮城伸一郎(B)、エンマ(Key)

2 石橋凌(Vo)、田中一郎(G&B)、KEITH(Dr)

3 石橋凌(Vo)、田中一郎(G)、KEITH(Dr)、野中'サンジ'良浩(B)

第2期(1983年 - 1986年)

4 石橋凌(Vo)、KEITH(Dr)、野中'サンジ'良浩(B)、斉藤光浩(G)

5 石橋凌(Vo)、KEITH(Dr)、斉藤光浩(G)、ジャン=ジャック・バーネル(B)

6 石橋凌(Vo)、KEITH(Dr)、斉藤光浩(G)、岡部滋(B)

第3期(1986 - 1990年)

7 石橋凌(Vo)、KEITH(Dr)、岡部滋(B)、白浜久(G)

8 石橋凌(Vo)、KEITH(Dr)、白浜久(G)、浅田孟(B)

第4期(1998年 - 2006年)

9 石橋凌(Vo)、KEITH(Dr)、内藤幸也(G)、EBI(B)

10 KEITH(Dr)、内藤幸也(G)、EBI(B)

略歴

石橋と田中はARB結成前からの知り合い。ARBのボーカリストを探していた際に田中の先輩である甲斐よしひろから「石橋はどう?」と推薦され、石橋が東京でオーディションを受けてメンバーになった。

1977年田中、宮城、エンマ、KEITHの4人でバンドを結成。ボーカリストを探していたバンドは、甲斐よしひろの薦めやラジオパーソナリティからの紹介などもあり、オーディションにより石橋をボーカリストに選ぶ。これにより、メンバー5人が揃う。(ボーカル候補の1人は後にオフコースのメンバーとなる松尾一彦

1978年 - 1979年デビュー前、後楽園球場でのピンク・レディーのコンサートにおいて前座を務めた際、白の囚人服を着て登場したところ、ビクターエンタテインメント関係者の目にとまり、レコード会社が決まった。しかし、所属事務所のシンコーミュージックは、ARBをベイ・シティ・ローラーズのような、いわゆるアイドルグループとして売り出そうとしていた。1stアルバム『A.R.B.』発表後、純粋にロックをやりたいバンド側と事務所側の溝はさらに広がり、デビューから約1年後には独立を決意する。その際メンバーの宮城とエンマが脱退。独立後、ベース不在のまま、シングル「魂こがして」をリリース。ベースは田中が弾いている。

1979年東映映画暴力戦士』(石井輝男監督)出演[3][4]

1980年ベースにサンジ(野中良浩)を迎え、2ndアルバム『BAD NEWS』を発表。前作よりもギターサウンドを前面に打ち出したアルバムとなった。新宿ロフトなどのライブハウスをメインに活動、ライブバンドとして知れわたる。しかし、極貧生活のためメンバーは質屋通いをしていた。

1981年3rdアルバムの『BOYS & GIRLS』発表後、ドラムのKEITHが倒れ、入院することになったが、4thアルバムの『指を鳴らせ!/Snap Your Fingers』の発売がすでに決まっていたため、やむをえずサポートのドラマーを起用して製作が行われた。そのため、アルバムのクレジット表記では“KEITH(IN THE HOSPITAL)”となっている。

1982年 - 1983年5th?6thアルバムを発表。初期のロックンロールオリンピックに毎年のように出演していた。

1983年 - 1984年バンドのリーダーであった田中一郎脱退。その後、ツアーは複数のサポートギタリストを起用。その中から適任と思われたBOWWOW斉藤光浩を勧誘。斉藤自身も環境の変化を求めていたこともあり、BOW WOWから移籍し、正式加入する。結果、ARB、甲斐バンド、VOW WOW(BOW WOWから改名)という3つのバンドが絡む移籍劇が成立する。斉藤の加入により、田中時代のギターバンド路線を踏襲しつつも、田中時代より若干ポップな楽曲が発表されるようになった。しかし、ギター交代の束の間、不祥事によりベースのサンジを解雇することになる。その際、KEITHの親友であるストラングラーズジャン=ジャック・バーネルが急遽来日し、ベーシストとして一時参加した。7thアルバム『YELLOW BLOOD』にも2曲参加している。その後、オーディションにより岡部滋が正式ベーシストとして加入した。

1985年 - 1986年石橋はARBの知名度を上げるため、親交のあった俳優・松田優作が監督する『ア・ホーマンス』に出演した。その演技が映画業界で認められ、以後のARBは石橋の俳優活動と並行した活動になる。この映画の主題歌として、8thアルバム『砂丘1945年』に収録されている「AFTER '45」が使用された。

1986年斉藤が円満脱退し、白浜久が加入(斉藤の最終ライブに花束を持って白浜が急来日し、5人で演奏している)白浜の加入により、それまでの田中?斉藤時代の方向性とは大きく異なり、必ずしもギターを軸としない楽曲、打ち込みを多用した楽曲が発表されるようになる。ライブでも、白浜加入後の楽曲はもちろん、過去の楽曲にも打ち込み要素を加えたアレンジをして演奏していた(「Give me a chance」「BLUE COLOR DANCER」など)。

1987年打ち込み多用の集大成ともいえる10thアルバム『ROCK OVER JAPAN』を発表。このアルバム発表後に、岡部が脱退。シーナ&ロケッツの浅田孟が加入。(浅田と白浜はメジャーデビュー前のTHE MOZZ=THE MODSで一緒に活動していた)浅田が加入したころになると、バンドは再びバンドサウンドを基調とした活動に戻っていった。また、シングル「SWEAT, HEART & BRAIN」のカップリングとして、田中時代の楽曲「BAD NEWS」「DO IT! BOY」のアレンジ版がリリースされ、それ以外の過去の楽曲においてもライブで、コード進行の変更、ギターソロのない曲にギターソロを加えたり、またはその逆を行ったり、大胆なアレンジを積極的にしていた。

1988年デビュー10周年にして初の日本武道館ライブを敢行。

1989年12thアルバム『SYMPATHY』を発表。オーストラリアでの初の海外レコーディングが行われた。本作に収録されている「MURDER GAME」は歌詞の内容が宮崎勤による東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件に酷似しているとNHKから指摘があったため、放送禁止になった。


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