AMEMIYA
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AMEMIYA
本名雨宮 陽平(あめみや ようへい)
生年月日 (1978-11-10)
1978年11月10日(45歳)
出身地 日本千葉県佐倉市
血液型AB型[1]
身長175 cm
言語日本語
方言標準語
最終学歴千葉県立幕張総合高等学校
出身NSC東京校3期
コンビ名ノンストップバス(1997年 - 2003年)
相方西条みつとし(コンビ時代)
芸風歌ネタ
事務所ソニー・ミュージックアーティスツ
活動時期1998年 - 2003年
2010年 -
(※芸人としての活動時期)
同期トータルテンボス
山田ルイ53世(髭男爵
サンドウィッチマン など
現在の代表番組人気芸能人にイタズラ! 仰天ハプニング○連発
AMEMIYAのとにかく歌います♪
過去の代表番組HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP
作品CD「冷やし中華はじめました」(SMALLER RECORDINGS)
書籍「日本の歴史はじめました」(双葉社)
CD「マジ歌はじめました〜箸にも棒にもかからなかった名曲たち〜」(SMALLER RECORDINGS)
他の活動歌手
役者
配偶者あり
公式サイトプロフィール
受賞歴
R-1ぐらんぷり2011準優勝
イケメン歌がうまい王座決定戦スペシャル優勝
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アメロック→AMEMIYA
出生名雨宮 陽平(あめみや ようへい)
生誕 (1978-11-10) 1978年11月10日(45歳)
出身地 日本 千葉県佐倉市
学歴千葉県立幕張総合高等学校
ジャンルロック
J-POP
職業歌手
ギタリスト
担当楽器
ギター
活動期間2003年 - 2009年(※ダイナマイトオレンジのメンバーとして)
2011年 -(※ソロ歌手として)
共同作業者ダイナマイトオレンジ(解散)
著名使用楽器
Takamine

AMEMIYA(アメミヤ、本名:雨宮 陽平(あめみや ようへい)、1978年11月10日 - )は、日本お笑い芸人歌手
来歴・経歴
略歴

千葉県千葉市稲毛生まれ 、同県佐倉市志津育ち[2]佐倉市立井野小学校千葉県立幕張総合高等学校卒業。

1997年吉本総合芸能学院(NSC東京校/3期生)に入学。高校の同級生の西条みつとし(後のあれきさんだーおりょう)とコンビ「ノンストップ」を結成しツッコミ役を務める。NSC東京卒業後はワタナベエンターテインメントに所属。コンビ名を「ノンストップバス」と改名する。

2003年ノンストップバス解散。同年ボーカリスト「アメロック」(amerock) として転身し、同窓生と「2人バンド」を結成。2005年にはバンド名をダイナマイトオレンジに改名。同バンドを率いる歌手、エンターテイナーという形で活動する。

2009年ダイナマイトオレンジ解散。翌2010年から再びお笑い芸人としての活動を再開することを決めSMA NEET Projectに所属。ギター一本で自作の歌ネタを披露するというスタイルで活動を始める。

2011年『R-1ぐらんぷり2011』に初出場。準優勝を果たす。同年5月に放送された『イケメン歌がうまい王座決定戦スペシャル』(フジテレビ)にも初出場。優勝を果たす。

2012年『R-1ぐらんぷり2012』に出場。決勝進出を果たし、2年連続のファイナリストとなる。
高校-NSC時代

尾崎豊が大好きで、始めはお笑いよりも音楽に興味を持っていた。父親に高校の入学祝いとしてアコースティックギターを買ってもらったことがきっかけで曲作りを始め、同級生の友人らとともにバンド活動も行っていた。当時はボーカルではなくサイドギターを担当していた。

高校卒業時進路に迷っていたところ、同級生であった西条みつとし(後のあれきさんだーおりょう)がNSCに行くのを知り自分もお笑いをやってみようと入学を決意。1997年、彼と共に「ノンストップ」というコンビを組み、ツッコミを担当することとなる。当時はボケとツッコミを交えたオーソドックスなコントを主体とする芸風で、ネタを作っていたのは基本的に相方であった。

しかしNSC卒業後もお笑いでやっていこうという決意までは固まっておらず、ツッコミ役にも違和感を感じており、たまに出演していた銀座7丁目劇場が閉館するタイミングで吉本興業を辞める。これを機にお笑いそのものからも足を洗おうと考えたが、相方の説得もあり結局は新たな事務所を探すこととなる。

そんな折NSCの講師もやっていた放送作家の元祖爆笑王ワタナベエンターテインメントを勧められ、オーディションを受け一発合格する。晴れて「ナベプロ芸人」となり、コンビ名も「ノンストップ」から「ノンストップバス」へと改名する。
ノンストップバス時代

「ノンストップバス」となってからは芸風がガラリと変わり、「絵の中に閉じ込められる男」や「あの世に行くエレベーター」などストーリー性の高いシュールなコントネタを手掛けるようになった。2人のアイドル的な風貌も相まって次第に人気も高まって行き、『爆笑オンエアバトル』(NHK G)や『新しい波8』(フジテレビ)、『やるヌキッ!』(テレビ東京)などテレビの仕事も舞い込んでくるようになった。

しかし徐々に盛り上がりを見せ始める周囲の環境を余所に、常々抱いていたツッコミ役への違和感はどうにも拭い去れず、また自分の力が発揮できているという自信も持ち得なかった。他の仕事が増えた時にどうすれば良いだろうという不安に苛まれながらも我慢して活動を続けていたが、その我慢が張り通せなくなった25歳の頃、半ば強引な形でコンビ解散という道を選ぶこととなる。事務所に解散を告げに行った際は、また引き留められないようにするため頭がおかしくなったと思われた方がいいだろうと、サングラスをかけたパンクロッカーのような出で立ちで「アイ・アム・ミュージシャン!!」と連呼した。マネージャーには「俺の目の黒い内は絶対に舞台に上がらせねーからな!」と激怒されたという。
2人バンド-ダイナマイトオレンジ時代

ワタナベエンターテインメントを辞めた後は、かねてより興味のあった音楽の道へと進むこととなる。ちょうどその頃、高校時代に曲作りの楽しさを教えてくれた友人が仕事に迷いを持っていた時期でもあったため、彼を誘い「2人バンド」というバンドを組み正式に音楽活動を始める。当時の芸名は「アメロック」であった。

程なく小さな会場を借り初のワンマンライブを開催すると、ノンストップバス時代のファンが足を運んでくれたこともあり約80人以上が集まった。それに気を良くして開催した2回目は30人に減り、それでも懲りずに開催した3回目はわずか3人しか集まらなかった。3回目はあまりの少なさに開演を30分遅らせてみたものの、そのために2人が帰ってしまい結局1人しか残らなかったという。

しかしその後、ノンストップバスを知る関係者の手引きもあり、爆笑オンエアバトルの音楽編である『熱唱オンエアバトル』(NHK G)に出場の機会を得る。オンエアを勝ち取り史上初となる「オンバトシリーズ」両方の出演を果たしたものの、開始の合図と同時に演奏せねばならぬルールを無視し歌の直前にトークを挟み3笑い位とってから開始したため、ディレクターに「調子に乗ってるのか!」と首根っこを引っ掴まれて激怒され、その後この番組には二度と呼ばれなかったという。

以降メンバーを増やしバンド名を「ダイナマイトオレンジ」と改め、マネージャー兼フロントマン兼エンターテイナー兼ボーカルとしてその一切を取り仕切るもライブをやる度に借金が嵩み、その借金を返済するためにバイト漬けの生活を送らねばならず音楽活動はなかなか日の目を見ることがなかった。それでも一時は芸能事務所に所属したこともあり、舞台の主題歌や挿入歌を担当したこともあったが、メンバーの不慮の事故、脱退などを経て、2009年末には6年間続いたバンド活動にも終止符が打たれることとなる。


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