ADD_SOME_MUSIC_TO_YOUR_DAY
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この項目では、山下達郎のアルバムについて説明しています。ザ・ビーチ・ボーイズの楽曲については「アド・サム・ミュージック・トゥ・ユア・デイ」をご覧ください。

『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』
山下達郎スタジオ・アルバム
リリース1972年 (1972)
録音.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

SURFIN' RABBIT STUDIO

1972年8月 (1972-08) - 9月

ジャンル

ロック

ポップ・ミュージック

ロックンロール

サーフ・ロック

レーベルSURFIN' RABBIT RECORDS
山下達郎 アルバム 年表

-

ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY

(1972年 (1972))


SONGS / SUGAR BABE

(1975年 (1975))



村松邦男 年表

-

ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY

(1972年 (1972))


SONGS / SUGAR BABE

(1975年 (1975))


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『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』(アド・サム・ミュージック・トゥ・ユア・デイ)は、1972年 (1972)に山下達郎とその友人たちが自主制作したスタジオ・アルバム
解説

中学時代、クラス・メイトだった山下達郎と並木進は音楽の話で意気投合し、4人編成のアマチュア・バンドを結成した。1967年 (1967)、中学3年生だった彼らはどうせやるんだったらもっと“価値のある音楽”を目指そうということで、コーラスを主体にしたグループを目指すことになった。グループは高校進学後も活発な活動を続け、そのうち並木が高校で知り合った鰐川己久雄を連れてきて、バンドは5人組となった。しかし、日曜日だけの練習では思うようにハモれず、結局2年間で演奏可能なレパートリーは7、8曲だったという。このメンバーで高校1年の終りまで活動した後、大学受験に専念するために脱退する友人や、当時の世相を反映して学生運動に参加するものが出るなどして、中学時代から続いたこのアマチュア・バンドは、一時解散状態となった。

しかし、その後も並木は高校の同級生やその友人といった色々なメンバーを集め、断続的に音楽の集いを継続させていた。一方山下は自身の高校にこうした趣味性を共有できる仲間がいなかったため、しばらくは家でテレコを2台使った一人多重コーラスを行って欲求不満を解消していたが、やはり大勢で演奏する魅力が忘れられず、1969年 (1969)の秋頃からは山下もその集団に参加するようになった。高校卒業後もこの集まりは細々と続き、メンバー全員が大学に進学した1972年 (1972)の春、誰の口からともなく、今までの活動を自主制作のレコードにしてはどうかという提案が出された。何故アルバムを作ろうということになったかについて、並木は「なんとなく、4人が同時にレコード作ってみようかなんて気持ちになったみたい。レコード作って、どうなるなんてのはなかったけど、何か形にして残したかった。ステージもあまりやんなかったし。それぞれの思惑は違ってたのかもしれないけど、とにかく作ってみたかった」[1]と語っている。

まず製造ルートについては友人のそのまた友人に、東芝音楽工業の特販課と関係している人がいて、その人の口利きで確保できた。値段は100枚で\135,000、1枚\1,500と決まった。さらにちょうどその頃、ヤマハから“YESマシーン(ヤマハ・アンサンブル・システム)”という多目的ミキサーが発売された。マイクとラインとギターの入力インピーダンスが選べ、信号の定位を2個のボタンを使って左右・センターとワンタッチで切り替えられ、さらにオーディオ用のステレオ・ライン・アウト端子がついているという、当時としては画期的なこのミキサーのおかげで、その頃宅録でもっとも困難だったステレオ録音で音をちゃんとセンターに定位させることができ、この自主制作盤は完成させることができたという。

使用楽器は、並木によれば「ギターがグレコの\12,500のセミアコ、ベースは\35,000のやつ、山下のドラム・セットは\4?50,000位のだったと思う。オルガンは武川(武川伸一)んちにあった電気オルガン、ピアノはウチのアパートに住んでいた外国人が捨てていった調律のできない小型のやつ」[1]だという。録音はすべて並木の自宅で行われ、使用したテレコは、当時最も一般的な仕様だった19cm/secステレオ4トラック。それを使って、まず、一台目のテレコにリズム・トラックなどをレコーディングした後、今度は録音された音を聴きながら、ギター・ソロやコーラスなど追加したい楽器を演奏し、両者をミックスしたものをもう一台のテレコに録音していくという、いわゆる“サウンド・オン・サウンド”という方式。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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