AC/DC
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この項目では、ハードロックバンドについて説明しています。交直変換回路については「整流器」をご覧ください。

AC/DC
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アルゼンチン・ブエノスアイレス公演(2009年12月)
基本情報
出身地 オーストラリア ニューサウスウェールズ州シドニー
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ブルースロック[1][2]

ハードロック[3]

ヘヴィメタル[4][5]

スタジアム・ロック[6]

活動期間1973年 -
レーベル

アルバート

アトランティック

アトコ

エレクトラ

イースト・ウエスト

EMI

エピック

公式サイトAC/DC公式サイト

メンバー

アンガス・ヤングギター

ブライアン・ジョンソンボーカル

クリフ・ウィリアムズベース

フィル・ラッドドラムス

スティーヴィー・ヤングギター


旧メンバー後述を参照

AC/DC(エーシー・ディーシー)は、オーストラリア出身のロックバンド。スコットランド人のアンガスマルコムのヤング兄弟を中心に1973年、シドニーにて結成。同国を代表するグループとして世界的知名度を獲得し、現在も世界屈指の人気を誇っている。1980年発売の『バック・イン・ブラック』は5000万枚以上の売り上げを記録し、世界史上3番目に売れたアルバムである。2003年ロックの殿堂』入り[7]ローリング・ストーン誌選定「歴史上最も偉大な100組」第72位。ウォール・ストリート・ジャーナル「史上最も人気のある100のロックバンド」6位[8]。全てのオリジナル・アルバムがマルチ・ミリオン・セラー(200万枚以上の売り上げ)を達成している。全世界累計(レコードも含む)アルバムセールスは世界史上10位タイの2億4000万枚以上を記録しており、70年代結成のロックバンドでは最も多い売り上げである[9][10]。また、全米ではロックバンドとしてのアメリカ音楽史上5位となる、7500万枚以上のセールスを記録している。
概要

バンド名の由来は、ミシンに書かれていた「AC/DC」から名付けたものといわれる。地元オーストラリアでは愛着を込めて Acca Dacca (アカ・ダカ)[11]と呼ばれている。

「AC/DC」とは、本来は「両用」の意であるが、バイセクシュアル(両性愛)を表す隠語(日本語の「両刀使い」に近いニュアンス)でもあったため、バンド初期には勘違いしたゲイバーからの出演依頼がたびたびあった。

音楽プロデューサーのリック・ルービンは、先述のローリング・ストーン誌選定「歴史上最も偉大な100組」に寄せたエッセイでAC/DCを「史上最高のロックンロールバンド」と明言した。MTVはAC/DCを「史上最高のヘヴィメタルバンド」の7位に選んだ[12]
来歴アンガス・ヤング(G)1982年マルコム・ヤング(G)1982年
青年期

スコットランドグラスゴーで生まれた、ジョージ、マルコム、アンガスのヤング兄弟が家族と共にオーストラリアのシドニーに移住したのは1963年のことである。

最初に楽器を手にしたのはジョージであった。その後、彼は1960年代に最初はオーストラリアで有名にあった、「The Easybeats」のリズムギターとして活躍する(ジョージとThe Easybeatsのリードギタリスト、ハリー・ヴァンダ(Harry Vanda)はその後、初期AC/DCのアルバムプロデューサーとして活躍する事となる)。イージービーツは、その後アメリカでも知られるようになった。アンガスとマルコムが彼に続くのに時間はさして掛からず、兄弟が組んだ最初のバンドの名はThe Velvet Underground(ニューヨークのプロト・パンク/オルタナティヴ・ロックバンドとは、同名異バンド)。
初期の活動(1973年 - 1975年)

1973年11月、マルコムとアンガスはベースにラリー・ヴァン・クリート、ヴォーカルにデイヴ・エヴァンス、ドラムにコリン・バージェスを迎えAC/DCを結成、初のライヴは1973年12月31日、シドニーのChequersというクラブで行った。程なくしてバンドは、EMIがオーストラリアとニュージーランドで配給を行っていたローカルレーベル「Albert Records」と契約を結ぶ。最初期のラインナップは安定しておらず、特にドラムとベースは頻繁に入れ替わっており、コリン・バージェスにいたっては数週間しか在籍しなかった。この状態は約1年程続いたようである。またアンガス兄弟は、ゲイリー・グリッターの様なグラムロッカーからの影響が強かったデイヴ・エヴァンスはバンドに合っていないと結成直後から考えており、バンドのマネージャーだった Dennis Laughlinが彼の代わりにステージに上がるという事もあった(この事がヴォーカリスト交代劇の伏線となっており、デイヴ・エヴァンスはDennis Laughlinを酷く恨んでいたという)。

バンドのトレードマークともいえる、アンガスのスクールボーイスタイルの衣装はこの頃から既に試されており、アンガス自身の中学校の制服とシドニーにあるアッシュフィールド高校の制服を使用していた(このスタイルは彼の姉であるマーガレット・ヤングの提案によるものである)。ただ当時はこの衣装だけでなく、ゴリラ怪傑ゾロ、スーパー・アングなるスーパーマンのパロディーの様な物まで衣装にしていた。

この頃、バンド機材車のドライバーをしていたのがボン・スコットだった。

デイヴ・エヴァンスをヴォーカルに据えたAC/DCはシングル盤「Can I Sit Next to You Girl / Rocking In The Parlour」をリリースし国内をツアー行ったがエヴァンスはツアー中の軋轢が高じてマネージャーと殴り合う事態に至り、バンドからの離脱が避けられなくなってしまった[13]ボン・スコット(Vo)

1974年9月、バンドはデイヴ・エヴァンスに代わり、オーストラリアでいくつかのバンドで経験のあるボン・スコットをヴォーカリストとして迎え、翌1975年1月に、たった10日間でレコーディングした1stアルバム『ハイ・ヴォルテージ(High Voltage)』をリリース(当初はオーストラリアのみのリリースだった)した。このアルバムからは「It's a Long Way to the Top (If You Wanna Rock 'n' Roll)」がシングルカットされ、B面には2ndアルバムのタイトルトラック「T.N.T.」が収録されている。このころからラインナップは安定し、アンガス兄弟、ボン、フィル・ラッド(ドラム)、マーク・エヴァンス(ベース)の編成が暫く続くこととなる。同年12月には2ndアルバム『T.N.T.』をリリース。

また1974年1977年に、オーストラリアで全国放送されていた音楽番組「Molly Meldrum's Countdown」に出演しライヴ演奏を行っており、この頃には名実共にオーストラリアで最も成功したバンドとなっている。これ以降、バンドはテレビ番組でのライヴ演奏を行っていない。
世界的な成功(1976年 - 1979年)1976年のライブ

1976年、バンドはアトランティック・レコードと世界規模のレコード契約を結ぶ。これによりバンドはレインボーキッスエアロスミススティクスブルー・オイスター・カルトらの前座としてイギリスヨーロッパのスタジアムクラスの会場をサーキットすることとなる。1976年9月28日には「ハイ・ヴォルテージ」と「T.N.T.」の楽曲から再構成されたコンピレーション・アルバム『High Voltage』をアトランティック・レコードから全世界でリリース、現在まで600万枚以上を売り上げている。同年には、早くも次のアルバム『悪事と地獄(Dirty Deeds Done Dirt Cheap)』をリリース。このアルバムは現在流通している通常盤の他にオーストラリア盤が存在し、ジャケットと収録曲がそれぞれ異なっている(なお、このアルバムがアメリカでリリースされたのは1981年であり、その前年に発売され、売れに売れていた『バック・イン・ブラック(Back in Black)』の余波を受けて、この作品もロングセラーを記録している)。この様なバージョン違いの存在は、次のアルバム『ロック魂(Let There Be Rock)』まで続いている。

『ロック魂』のレコーディング終了後、アンガス・ヤングとの不仲が原因でマーク・エヴァンスが解雇され、後任としてクリフ・ウィリアムズ加入。クリフ・ウィリアムズ(B)1981年

AC/DCは、1977年にミシガン州のFlint's Capitol Theaterでアメリカでの初ライヴを行った (前座はMC5)。

1978年、クリフ・ウィリアムズ加入後初のアルバム『パワーエイジ(Powerage)』をリリース。同アルバムに伴うツアー中にグラスゴーのアポロシアターでレコーディングされたライヴ盤『ギター殺人事件(If You Want Blood)』を同年にリリース。ファースト・アルバムから続いたHarry Vandaとジョージ・ヤングによるプロデュースは、このアルバムまでとなる。

1979年、6枚目のアルバム「地獄のハイウェイ(Highway To Hell)」 をリリース。プロデューサーは、ジョン・マット・ラング。このアルバムはアメリカで発売された最初のアルバム(最高位は17位)で、彼らの出世作。また、その後の音楽性の礎ともなっており、AC/DCのバンドサウンドが完成されたアルバムである。バンドが世界的な人気を得るのは、もはや時間の問題であった。
ボン・スコットの死(1980年)ボン・スコットの墓

1980年2月19日、ボン・スコットが友人の車中で死亡しているのが発見された。原因は睡眠中、嘔吐物を喉に詰まらせての窒息死であった。その夜、ボン・スコットはロンドン市内で友人のアリステア・キニアーと飲酒後、彼の車で帰宅。アリステアが車中で寝てしまったボンを残し、車を離れた後に起こった出来事であった。ボンは、彼が子供時代を過ごしたオーストラリアのフリーマントルに埋葬された。

彼の死にはヘロインの過剰摂取や、排気ガスを引き込んでの自殺等、様々な噂があり、中には友人のアリステア・キニアーは存在しない人物だというものまであった。しかしボン・スコットは喘息持ちで、彼が発見された朝は気温が零下を下回っていたことから、発作によって引き起こされた可能性が大きいとされている。

彼の墓には、数多くの観光客が慰霊に訪れる。ブライアン・ジョンソン(Vo)1982年
新ヴォーカリスト

ボン・スコットの死後、バンドは解散する事も考えたが、ボンはバンドを続けることを望んでいるだろうという結論に至り、活動継続を決定した。ボンの後任として最初にBack Street Crawlerのテリー・スレッサーにバンド加入のオファーを打診するも、既に確立されたバンドには加入しないという考えから断られた(その後ソロキャリアで成功を収めており、アイアン・メイデンカヴァーした「Rainbow's Gold」は彼の作品である)。また、元Moxyのバズ・シャーマンにも断られている。そして最後にマネージャーから推薦されたのは「All Because Of You」のヒットで知られる、イギリスグラムロックバンドGeordieのブライアン・ジョンソンであった(ただしバンド側は当初、Geordie時代のイメージから彼の加入には懐疑的だったようだ)。

オーディションでブライアンは「Whole Lotta Rosie」とアイク&ティナ・ターナーの「Nutbush City Limits」を歌っている。
ブライアン・ジョンソン加入後(1980年 - 1987年)イングランド・バーミンガム公演 (1981年)


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