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ABO式血液型それぞれの赤血球型、血清中の抗体、赤血球表面の抗原を示した表ABO式血液型それぞれの赤血球表面における抗原の模式図。
A型の赤血球にはN-アセチルガラクトサミンを含むA抗原、B型の赤血球にはN-アセチルグルコサミンを含むB抗原があり、AB型の赤血球ではA抗原・B抗原が共にある。O型の赤血球には両抗原がない。
ABO式血液型(ABOしきけつえきがた)は、血液型の分類の一種。ヒトの場合はA、B、O、ABの4型に分類する。型を決定する対立遺伝子はA、B、Oの3種、遺伝子型はAA、BB、AB、AO、BO、OOの6種がある。 血液型は初め血液の型として出発したのでこの名があるが、その後の研究において血液のみに関わらず一個人の細胞、臓器、体液にはもちろん、毛髪などの硬組織にも分布する個人を血清学的に識別できる方法であることが分かっている[1]。 赤血球の表面には250種以上の表面抗原があるが、A/B型抗原はその代表的な抗原である。赤血球の表面にA抗原があるとA型、B抗原があるとB型、AとB両方の抗原があるとAB型、両抗原が無いとO型とする[2]。先の遺伝子型でいうと、AA・AOがA型、BB・BOがB型、ABがAB型、OOがO型となる。 逆に血漿中には各抗原に反応する抗体があり、通常A型の血漿中には抗B抗体があり、B型の血漿中には抗A抗体があり、AB型の血漿中には抗A抗体も抗B抗体のどちらも無し、O型の血漿には抗A抗体と抗B抗体両方が存在する[2]。 血漿中の抗体を調べることで血液型を判定することを裏試験ともいう[2]。表面抗原に、それぞれ対応する抗体が反応すると赤血球は凝集してしまう。 最も初期に発見された血液型分類である。 1900年にオーストリア・ハンガリーのウィーン大学で病理学教室の助手をしていたカール・ラントシュタイナー(Karl Landsteiner, 1868年 - 1943年)は、イギリスの病理学者シャタックの「肺炎患者の血球と血清(それぞれ別人)を混ぜていた際に凝集があった」という報告を聞いて、これが正しいか、正しければ肺炎の診断に利用できないかの追試を行った。 そこで自分を含む22人の健康な人の血液を血球と血清に分けて互いに混ぜ合わせて調べた所、以下のような凝集反応の有無が確認され、凝集は健康な人同士でも起こりうる生理的現象で肺炎診断には使えないが、同じ血清を入れた場合でも血球の持ち主によって凝集するときと凝集しない時があるという事に気がついた。 (以下の表は要点を抜粋したもので、残り16人分は省略されている) 液性成分/細胞成分Storck博士Pletschknik博士Sturli博士Erdheim博士Zaritsch氏ラントシュタイナー[注釈 1] (山本文一郎『ABO血液型が分かる科学』P4 表1-1「ランドスタイナーの赤血球の凝集実験の結果」より) これらより凝集のする・しないのグループ分けをするとErdheim博士・Sturli博士、Pletschknik博士・Zaritsch氏、Storck博士・ランドスタイナーと分けられ[3]、ランドスタイナーは「人の血液は3つの群に分けられる」として、「A型」「B型」、「C型(このC型は現在のO型である)」と名付け、翌年の1901年11月14日に論文発表した[4]。 さらにその翌年(1902年)にアルフレッド・フォン・デカステロとアドリアノ・シュテュルリによってこの3群のいずれにも入らない第4の型が追加発表された[5]。 こうした血液の型の呼び方について1906年と1909年にポーランドのヤンスキー、アメリカのモスがそれぞれ独自にこの4つの型を番号で第I?IV群と呼んだが、お互い順番がバラバラ(I・IVがヤンスキーとモスで逆)でそれぞれの分類を使う人同士に混乱が起き、これとはさらに別に1910年にエミール・フォン・デュンゲルンとルドヴィク・ヒルシュフェルトが4種類の血液について詳しい研究をして「人の血液中には凝集原(抗原)AとB、それぞれに反応する抗体αとβがある。」とまとめ、「A抗原を持っている人をA型(抗体はβ)」というようにまとめ、両方の抗原を持つ人をAB型、両方の抗原がない人をO型と呼んだ[6]。 (なお、C型をO型に変更した理由は、数字の「0」(ゼロ)ではなく、ドイツ語の「ohne その後1928年の国際連盟の血清標準委員会で、フォン・デュンゲルンとヒルシュフェルトの名称を国際的に使うことが決められた[8]。 その後、フォン・デュンゲルンとヒルシュフェルトは1911年に72家族348人の血液型を調べた結果、血液型は遺伝要素があるという仮説を唱えた。 フォン・デュンゲルンおよびヒルシュフェルトによる調査(1911)[9][注釈 2]両親の組み合わせ家族数Oの子Aの子Bの子ABの子 これにより「凝集原を持つ人は必ず親がそのタイプの凝集原を持つ」、「両親ともに凝集原のないO型の場合は子供は必ずO型」という法則を知り、これをもとに血液型は、メンデルの法則に従って遺伝し「Aとa」「Bとb」という二対の対立因子を考えた。(二対対立因子説) 二対対立因子説による4血液型の因子型[10]表現型因子型 二対対立因子説による遺伝[11]両親の組み合わせ生まれる子供[注釈 3] 一方、1925年にドイツのゲッティンゲン大学の数学者フェリックス・ベルンシュタイン
概要
歴史
+ {\displaystyle +} は凝集、 − {\displaystyle -} は非凝集。
細胞成分は血球、液性成分は血漿。
Storck博士 − {\displaystyle -} + {\displaystyle +} + {\displaystyle +} + {\displaystyle +} + {\displaystyle +} − {\displaystyle -}
Pletschknik博士 − {\displaystyle -} − {\displaystyle -} + {\displaystyle +} + {\displaystyle +} − {\displaystyle -} − {\displaystyle -}
Sturli博士 − {\displaystyle -} + {\displaystyle +} − {\displaystyle -} − {\displaystyle -} + {\displaystyle +} − {\displaystyle -}
Erdheim博士 − {\displaystyle -} + {\displaystyle +} − {\displaystyle -} − {\displaystyle -} + {\displaystyle +} − {\displaystyle -}
Zaritsch氏 − {\displaystyle -} − {\displaystyle -} + {\displaystyle +} + {\displaystyle +} − {\displaystyle -} − {\displaystyle -}
ラントシュタイナー − {\displaystyle -} + {\displaystyle +} + {\displaystyle +} + {\displaystyle +} + {\displaystyle +} − {\displaystyle -}
OとO1126000
AとA1011900
OとA30245700
BとB10020
OとB33050
AとB81964
OとAB42223
AとAB20312
BとAB34242
ABとAB00000
計72711022011
O型aabb
A型AAbb、Aabb
B型aaBB、aaBb
AB型AABB、AABb、AaBB、AaBb
OとOO
AとAA、O
OとAA、O
BとBB、O
OとBB、O
AとBA、B、O、AB
OとABA、B、O、AB
AとABA、B、O、AB
BとABA、B、O、AB
ABとABA、B、O、AB
(三複対立因子説の詳細については因子の組み合わせは「機構」、遺伝は「ABO型における親子の理論的な血液型の組み合わせ」を参照。)
両者の内容には差異があるが(後述)どちらもO型は「対立因子がない」のではなく「対立因子の1つを持つが他の因子に潜性遺伝する(古畑の言葉を借りると「AとBに対し潜性するa・bが同じもの[12]」)」という考えで、これならばAB型が少ない理由も子供の生まれる組み合わせも説明できるため、確認のため別の学者たちが何度か家族調査を行った結果、日本国内で合計で958家族、3954人を調べ三複対立因子説の通りの調査成績になったため、1927年のアムステルダムで開かれた第3回国際人類学会とベルリンの第5回国際遺伝学会で古畑らはこれを報告し、ついで1933年の第5回太平洋学術会議で1595家族6826人(子供3636人)の調査結果を報告し、血液型の遺伝は三複対立因子説で説明されるようになった[13]。