エー・ビー・エヌ・アムロ・グループ
ABN AMRO Group NV
ABNアムロ銀行の本店
種類株式会社
市場情報Euronext: ABN
ABNアムロ銀行 (えーびーえぬアムロぎんこう) は、オランダ・アムステルダムに本拠を置く大手投資銀行。リーマン・ショック後の一時国有化を経て、現在は持株会社のABNアムロ・グループの傘下に位置づけられている。同グループは2015年11月、ユーロネクスト・アムステルダム市場(Euronext: ABN )に株式公開を行った[1]。 1991年9月22日、ABN(Algemene Bank Nederland
概要
ABNアムロは1996年にN・M・ロスチャイルド&サンズと、1998年にメロン銀行ペンシルベニア支店と、事業提携した。1999年12月からシャドー・バンキング・システムを構築してゆき、世界金融危機で破綻するような簿外処理を重ねた[2]。2002年にDelbruck & Co. を、2003年にベスマンバンクを買収した。ベスマンバンクは子会社ながら拡大を遂げて、2013年12月にクレディ・スイスのドイツプライベート・バンキング部門を買収した。
2004年、ABNアムロはリーゼ・プラン(LeasePlan)をフォルクスワーゲングループ、ムバダラ・ディベロプメント・カンパニー、オラヤングループ(Olayan Group)の三社に売却した。
2007年10月、ABNアムロはロイヤルバンク・オブ・スコットランドとサンタンデール、フォルティスの3行連合に買収された。2008年4月に上場廃止。同年秋のリーマン・ショックでフォルティスがオランダ、ベルギー、ルクセンブルク各政府の救済措置を受けた際、オランダ政府はフォルティスからABNアムロを含むオランダ事業を取得した。2010年、ABNアムロはフォルティス系のフォルティス・バンク・ネーデルランドと合併した。
2015年に上場したABNアムロであるがしかし、翌年に公開されたパナマ文書の情報は経済紙フィナンシエル・ダハブラット紙とトラウ紙をして顧客の租税回避を幇助していると主張させた[3]。ブルームバーグによると、2015年第4四半期には相当の減益を記録していた。2016年11月現在、ダハブラット紙によるとABNアムロは2つの子会社が保有している合計43億ユーロの国債に課税されて1.42億ユーロの追徴課税を受けている[4]。目下、ブロックチェーンに活路を見出そうとしている。 ABNはオランダ貿易会社(Nederlandsche Handel-Maatschappij
オランダ貿易会社
1903年に上海へ支店を出して以来1946年まで、オランダ貿易会社は上海ドルを流通させ通貨発行益を貪った[5][注釈 2][注釈 3]。
1926年ジッダにサウジ・オランダ銀行(Saudi Hollandi Bank)を設立し、蘭印からの移住者の便宜を図った。この銀行はサウジアラビアにおいて金本位制の中央銀行として活躍し、同国最初の石油取引を仲介した[6]。1936年まで支店網は拡大しなかった。
第二次世界大戦後にオランダ貿易会社は多くの支店を展開した。 1964年オランダ貿易会社は、一世紀の歴史をもつ農林金庫(Twentsche Bank
オランダ総合銀行
1967年ABNは、国立労働銀行・ドレスナー銀行・BNP・バークレイズ・バンカメと合弁でルクセンブルクに欧州金融会社(Societe Financiere Europeenne)を設立した。1972年、ABN・バークレイズ・ブリュッセル銀行・ドイツ信用抵当銀行(Bayerische Hypotheken- und Wechsel-Bank, 現ウニクレディト)が中心となり欧州銀行連合(ABECOR)を結成し、アメリカ系オフショアファンドを同連合で経営した。1973年には国際銀行間通信協会の設立にも参加した[5]。1975年、ABNがBank Mees & Hope を買収した[6]。この銀行は1966年にホープ商会と経営統合した。ホープ商会は19世紀に専ら米露の鉄道へ投資をしていた。元々オランダ東インド会社を経営する貿易商社であったが、20世紀に投資業へ軸足を移した。ホープ商会はベアリングス銀行その他ドイツの個人銀行らとベスマンバンク のコンソーシアムに参加していた。ベスマンバンクはロスチャイルドをライバルとした1748年創業の御用銀行家であり、マリア・テレジアやピウス6世 (ローマ教皇)、アレクサンドル1世などを顧客とした。
1979年、シカゴ第六位の規模であったラサール国立銀行(LaSalle National Bank)を買収した。1980年4月、ABNはヌフリーズ・シュルンベルジェ・マレ(Neuflize Schlumberger Mallet)の大半を買収した[5]。