ABCD包囲網
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ABCD包囲網(エービーシーディーほういもう、英語: ABCD line)とは、1930年代後半(昭和10年頃)から、海外に進出する日本に対抗して行われた石油屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止による米英蘭中諸国による経済的な対日包囲網。「ABCD」とは、貿易制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)と、各国の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣[1]、ABCD経済包囲陣、ABCDライン(: ABCD line)とも呼ばれる。この呼称は日本の新聞が用いたものとされる[2]が、初出については良く分かっていない[注釈 1][注釈 2]

この対日政策が、経済制裁経済封鎖かについては、研究者間でも一定していない[4]
概要

事実上の対日経済制裁に対する、日本側からの別称である[4]。経済制裁および経済封鎖という強制外交手段は、私掠船の時代以前から存在したが、非軍事的強制措置の手段として英蘭戦争あるいはナポレオン戦争時にほぼ確立した。戦時国際法においては、中立国権利義務が存在しており、ある国が交戦対象国に経済的圧力を及ぼす目的で、中立国に協力を要請し、中立国がそれに協力することは、中立義務違反として禁じられている。このため自国の港湾から輸出される貨物が、自国の許可書を持たない場合や、自国の港湾や船舶を経由して、敵性国に輸出される貨物が許可書を持たない場合、あるいは「経済封鎖」指定海域を航行する商船(船籍を問わず)に臨検した際、自国の許可書を所持しない場合、許可書のない貨物については、敵国所有物として拿捕の対象にするといった手法が開発された。また金融資産凍結令は、金本位制の時代にはイギリスあるいはアメリカ合衆国にとって、敵性国家の外国為替決済用資産を没収する強力な外交手段であった。

第一次世界大戦後には、その講和原則であるウッドロウ・ウィルソン十四か条の平和原則に基づき、従来の勢力均衡から、新たに集団安全保障という国際紛争や侵略に対し、国際社会が集団で協調して対処を行うことにより、平和秩序を構築する多国間主義体制へと転換する試みが行われ、国際平和機構である国際連盟が設立された。また国際連盟規約では、その16条において、軍事力の行使に至らない実際の平和構築の強制手段として、違約国に対する集団的な経済制裁が定められた。

個別の国家による経済制裁そのものは、強制外交手段のひとつであり、伝統的な国際法の理解によれば武力使用(交戦)による強制外交と同様に外交上の敵対行為と見なされる可能性がある[注釈 3]が、国際連盟規約の協約に従う限り、国際連盟を中心とする集団安全保障の枠組みでは、その国際法上の合法性が担保されることとなった[4]
中国と日本の動き

日本政府の協力者であった満洲奉天軍閥易幟後、特に間島では中国と日韓との紛争が拡大した(間島問題)。1931年昭和6年)9月18日の満洲事変の発生で、国際連盟は中華民国の提訴と日本の提案により、日中間の紛争に対し介入を開始し、リットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告を受けて、1933年(昭和8年)2月24日の国際連盟総会では「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム、現:タイ)、投票不参加1国(チリ)で採択された。この結果を受けて、中華民国は規約16条の経済制裁適用を要求したが、対日経済制裁には必要不可欠なアメリカ合衆国は、国際連盟に対し制裁に反対であることを、リットン調査団が派遣される以前の1931年(昭和6年)11月11日の段階で、駐米英国大使が確認しており、中華民国の要求は、他の代表の沈黙および討議打ち切り宣言により黙殺された。

1932年10月、日本は満洲国の独立は自発的なものではないと結論づけたリットン調査団の報告書を受け、1933年に国際連盟を脱退し、1934年にはワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告し、間島に間島省を設置した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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