AAアルヘンティノス・ジュニアーズ
原語表記Asociacion Atletica Argentinos Juniors
愛称El Bicho (The Bug)
El Semillero del Mundo (World's Seedbed)
El Tifon de Boyaca (The Boyaca Typhoon)
クラブカラー赤・白
創設年1904年
所属リーグプリメーラ・ディビシオン
ホームタウンブエノスアイレス
ホームスタジアムディエゴ・A. マラドーナ
ホームカラーアウェイカラーサードカラー
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ
アソシアシオン・アトレティカ・アルヘンティノス・ジュニアーズ(スペイン語: Asociacion Atletica Argentinos Juniors)は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスのラ・パテルナル地区を本拠地とするサッカークラブである。
1970年代にディエゴ・マラドーナなどが、1980年代にクラウディオ・ボルギやフェルナンド・レドンドなどがアルヘンティノスからプロデビューし、やがてビッグクラブへと羽ばたいていった。また、フアン・ロマン・リケルメやエステバン・カンビアッソも、アルヘンティノスの下部組織でプレーした経験がある。1985年にはコパ・リベルタドーレスで優勝してインターコンチネンタルカップに出場した。 アルヘンティノスの起源は1886年まで遡る。アメリカに端を発する社会主義的着想によって、数千マイル離れたアルゼンチンにロス・マルティレス・デ・チカゴと呼ばれるクラブが設立された[2]。その18年後、ロス・マルティレス・デ・チカゴはソル・デ・ビクトリアと合併してアソシアシオン・アトレティカ・イ・フトゥボリスティカ・アルヘンティノス・ウニードス・デ・ビジャ・クレスポが誕生したが、この長大なクラブ名はクラブエンブレム決定の際に問題となり、アソシアシオン・アトレティカ・アルヘンティノス・ジュニアーズ (Asociacion Atletica Argentinos Juniors) に短縮された[2]。それまでの緑色と白色のユニフォームは、社会主義のシンボルカラーに起因する赤色と黒色のストライプに変更された。1921年にプリメーラ・ディビシオンに初昇格し、トップリーグで16シーズンプレー。しかし1930年代半ばにクラブ存続の危機に陥ると、スタジアムからの立ち退きを命じられ、クラブ会員はかろうじて100人を超える程度まで減少した[2]。 1950年代に指揮を執ったフランシスコ・ファンディーノ監督が目指したスタイリッシュなパスサッカーは、El Tifon de Boyaca(ボジャカの台風)として知られた[2]。アルヘンティノスは名声を手に入れ、ディエゴ・マラドーナなどの若手有望選手を惹きつけた。1976年には15歳のマラドーナがトップチームデビューし、1980年にはリーグ戦で準優勝。マラドーナは4シーズン連続でリーグ得点王に輝いたが、不思議なことに、アルヘンティノスに黄金期が訪れたのは彼のボカ・ジュニアーズ移籍後であった。ロベルト・サポリティ
歴史
1988年11月20日のラシン・クラブ戦はPK戦にもつれ込んだが、このPK戦でのキッカーの人数は世界記録となった。両クラブ合わせて44人がPKを蹴り、アルヘンティノスが20-19でPK戦に勝利した[2]。
1990年代には再び財政問題に直面し、1996年にはプリメーラB・ナシオナル(2部)降格。フアン・ロマン・リケルメやエステバン・カンビアッソなど若手有望株の売却を余儀なくされた。彼らはアルヘンティノスの下部組織でプレーしていたが、リケルメはボカ・ジュニアーズの下部組織に移った後にボカからデビューし、カンビアッソはレアル・マドリードと契約した後にローン先のCAインデペンディエンテからトップリーグデビューした。