A7V
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他にも、やはりロシア軍から捕獲したロシア製の26口径ソコル(Sokol)57 mm砲を搭載した車輌もあり、搭載砲の違いにより砲架と砲基部にバリエーションが見られる。これらは左右に25度ずつ指向する事ができた。MG08重機関銃

重機関銃は複数が装備された。シュパンダウMG08 水冷式重機関銃が前部左右に二挺、後部左右に二挺、後方に二挺の合計六挺が装備され、一挺に付き二人の機関銃手が操作した。弾薬は36,000発が搭載された。ドイツが1908年に採用したMG08機関銃は、日露戦争でロシア軍が日本兵を苦しめたマキシム機関銃を範とするもので、250発の布製ベルトリンク式給弾で毎分450発を連射する能力を持っていた。ドイツはこれを開戦時には12,500挺を装備し、最終的には10万挺が配備された。

他にMG08を軽量化して可搬化したlMG08/15を一挺、モーゼル Kar98a 騎兵銃が六挺と手榴弾が装備され、これらは故障時や破損時に車外に脱出した乗員が戦闘に参加するために備え付けられていた。戦車兵それぞれの個人装備にはルガーP08が支給された。

車内はむき出しのエンジンの騒音がひどく、戦闘中はこれに戦闘騒音も加わるため声による指示は不可能であった。車内はわずかに差し込む光以外は真っ暗闇で、そのため射撃の指示は、主砲・機関銃共に、司令塔の車長が操作する射撃指示装置によって行われた。射撃指示装置は各射手の前の内壁に備えられる簡便な物で、文字盤に書かれた「ACHTUNG(注意)」と「FEUER(発射)」の表示がそれぞれ点灯するようになっていた。

なお、A7Vのなかでも「グレートヒェン号(sn.501)」は、雌型(機銃搭載型)として主砲を搭載せずMG08機関銃を二挺多く装備していたが、後に砲搭載型に改められている。

生産数は少ないにもかかわらず、試行錯誤しながらのハンドメイドであるため、装甲板の分割や各部形状にバリエーションが見られる。改良により装甲板は同じ厚さのままで耐弾性を向上させていった。
戦果跨乗する兵士(1918年7月)

ドイツ軍は膠着した戦況の打破を目指していた。1918年の春季攻勢は「特攻隊 (Stostrupp)」と呼ばれるMP18短機関銃)などを装備した歩兵部隊による浸透戦術が予定されており、A7V はこの支援にあたることになっており、突撃戦車という名称もこれに基づくものだった。一般の歩兵や突撃部隊と共に浸透戦術を想定した訓練も行われ、1918年3月21日のサン・カンタン(St. Quentin)北部での戦闘が初の実戦参加となった。

世界初の戦車戦は1918年4月24日午前にフランス北部のアミアン近郊、ヴィレ=ブルトヌー付近でイギリス軍のMk.IV戦車三輌と A7V 「メフィスト号(sn. 506)」「エルフリーデ号(sn. 542)」「ニクス号(sn. 561)」三輌の間で行われた。(イギリス軍はMk.Vとする説もある。Mk.IVの改良型で、操縦手一人での運転が可能となり、機動力が向上している。)雌型(機銃搭載型)の射撃を物ともしない A7V の攻撃で二輌が撃破されたが、応援の雄型(6ポンド砲搭載型)が A7V 「ニクス号」に砲弾を三発直撃、五名を戦死させ、戦車を放棄させた。残りのドイツ戦車は後退した。このときドイツ側の歩兵部隊も後退しており、イギリス軍の戦車も放棄するには至らなかったため、戦闘の結果判定はイギリス軍の勝利とされている。なお、「ニクス号」は脱出した乗組員が再搭乗し、自力で帰投している。また「エルフリーデ号」も損傷を受けており、戦闘終了後に操縦ミスから転覆し行動不能となった。

同日、一輌の A7V と七輌のマーク A ホイペット中戦車との戦闘が発生した。やはり機銃しか持たないイギリス軍戦車は一輌が A7V の砲により破壊され、三輌がドイツ軍野砲の直接射撃で失われた。(逆に、 A7V が倒されたとする資料もある。)

結局、 A7V が実戦で使用されたのは50日あまりだった。協商国側が合計で6,000輌あまりの戦車を投入可能であったのに対し、ドイツ側は20輌の A7V と併せて鹵獲戦車部隊100輌弱程度しか投入出来ず、大きく戦局を転換させることはできなかった。1917年11月のカンブレーの戦いにおいても、イギリス軍は計324輌の戦車でもって膠着した戦線に突起部を形成することに成功したが、これは再びドイツ側に奪い返された。戦車の投入は前線では有効であったものの、戦争全般に与えるほどの影響力は持たなかった。
各車のその後

シャーシ
ナンバー名称所属部隊その後
試作車輌訓練学校教習車
試作車輌訓練学校教習車 (GrKrftBtl. 1)
無線車訓練学校Kraftfahrer (GrKrftBtl. 1)
501
Gretchen第一部隊、第二部隊、第三部隊1919年に協商国によりスクラップ。
502/503第一部隊、第三部隊502 のシャーシ破損後、上部構造を 503 に転用。1918年10月にドイツにてイギリスにより捕獲され、その場で廃棄された。
504/544Schnuck第二部隊544 のシャーシ破損後、上部構造を 504 に転用。1918年8月31日に Fremicourt にて損失。一部の部品が現存する。レプリカがボービントン戦車博物館に展示。
505Baden I , (Prinz) August Wilhelm 第一部隊、第三部隊1919年に協商国によりスクラップ。
506Mephisto第一部隊、第三部隊1918年4月24日にヴィレル・ブルトンヌにて損失。オーストラリア軍に回収され、現在はオーストラリア、ブリスベーンのクィーンズランド博物館にて展示。唯一現存する車輌。
507Cyklop , (Prinz) Eitel Friedrich第一部隊、第三部隊1919年に協商国によりスクラップ。
524A7V-U に流用。
525Siegfried第二部隊1919年に協商国によりスクラップ。
526第一部隊1918年6月1日にドイツによりスクラップ。
527Lotti第一部隊1918年6月1日に Pompelle Fort にて損失。
528Hagen第二部隊1918年8月31日に Fremicourt にて損失。
529Nixe II第二部隊1918年5月31日にランスにて損失。アメリカ軍に回収されたのち、1942年アバディーン実験場にて廃棄処分。
540Heiland第三部隊、第一部隊1919年に協商国によりスクラップ。
541第一部隊1919年に協商国によりスクラップ。
542Elfriede第二部隊1918年4月24日にヴィレル・ブルトンヌにて損失。
543Hagen , Adalbert , Konig Wilhelm第二部隊、第三部隊1919年に協商国によりスクラップ。
560Alter Fritz第一部隊1918年10月11日に Iwuy にて損失。
561Nixe第二部隊1918年4月24日にドイツによりスクラップ。
562Herkules第一部隊、第二部隊1918年8月31日以降にドイツによりスクラップ。
563Wotan第二部隊実車は1919年に協商国によりスクラップ。1980年代に現存する"Mephisto"に基づいてレプリカを作成。現在はドイツのムンスター戦車博物館に展示。


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