A7V
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Sturmpanzerwagen A7V画像は塹壕戦の再現模型
ムンスター戦車博物館
性能諸元
全長8.00 m
車体長7.34 m
全幅3.1 m
全高3.3 m
重量30 - 33 t
懸架方式コイルスプリング
速度9 - 15 km/h(整地
4 - 8 km/h(不整地
行動距離30 - 80 km
主砲57 mm砲
副武装7.92 mm MG08重機関銃×6
装甲前面 30 mm、側面 20 mm
エンジンDaimler 165 204
液冷4気筒ガソリンエンジン
100 hp/800-900 rpm (149 kW) ×2
乗員18 名
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突撃戦車 A7V(: Sturmpanzerwagen A7V、シュトゥルムパンツァーヴァグン アー ズィーベン ファオ)は第一次世界大戦末期の1918年に実戦投入されたドイツで最初の戦車である。膠着状態に陥った塹壕線を突破することを目的として開発された。
前史

イギリスフランスと比肩する工業国であったドイツにおいて、初期の戦車にあたる兵器が最初に検討されたのは、オーストリア将校グンター・ブルスティン (Gunther Burstyn) が1911年に提案した自走砲架モトーアゲシュッツ (Motorgeschutz) で、当時としては斬新な旋回式砲塔を持った装輪装軌併用式車両であった。ドイツ軍はこの兵器を検討調査したものの、パテントの問題から実現しなかった。このモトーアゲシュッツの実物大レプリカはウィーン軍事史博物館に収蔵されている。

その後、1913年にフリードリヒ・ゲーブレ (Friedrich Goeble) が陸上装甲巡洋艦 (Landpanzerkreuzer、ラントパンツァークオイツァー) の提案を行ったが、この車両には履帯が1基装着されていたものの走行機能はなく、計画は中止された。ゲーブレは再度、全長35.75メートルの車両を設計したが、これも採用されなかった。

イギリスが『陸上軍艦』の計画を進めていることは諜報活動によりドイツ側にも伝わっていたが、ドイツの装甲戦闘車両開発が進められることはなかった。1916年9月にMk.I戦車が戦場に登場すると、企業から戦時省へ様々な試作案が持ち込まれた。その中で、ブレーマー・マリエン・ヴァーゲン (Bremer Marien Wagen) が開発された。これはダイムラーの4トントラックの後輪を履帯化した半装軌車で、1916年10月には前車輪も非駆動ながら装軌化され、1917年3月には装甲化も行われたが、テストの結果はかんばしいものではなかった。武装も搭載する計画があったが、装甲トラックの域を出るものではなく、戦闘車両としては採用されず、後に輸送車として使用された。
設計と生産

イギリス軍のMk.I戦車が初めて実戦に投入されたのは1916年9月15日ソンム会戦の事であった。Mk.I戦車は局地的には効果を発揮しドイツ軍には衝撃を持って迎えられたが、結果としては膠着状態を打破することは出来ず、協商国の戦線が11キロメートル余り前進するにとどまった。

しかしドイツではこれを受けてドイツ軍最高司令部 (OHL) が戦時省運輸担当第7課 (Abteilung 7 Verkehrswesen des Allgemeinen Kriegsdepartements im Preusischen Kriegsministerium) に同種の戦闘車両の開発を命じた。要求性能は、あらゆる地形に適応したうえで、前部・尾部に1門ずつの主砲と、側面に機関銃を装備して、時速10 km - 12 km で移動し、幅1.5メートルの塹壕を突破できる能力である。これを満たす車輌として、重量30トンの車体に80 - 100馬力のエンジンを搭載することとされた。非武装の輸送型では4トンの積載能力が求められた。

1916年11月13日に、ダイムラー社など有力企業数社と、ドイツ陸軍将校によって構成された交通技術試験委員会 (Verkehrstechnische Prufungskommission (VPK))および戦時省のあいだに、後に A7V となる全地形走行車両 (Gelandespanzerwagen) の開発に関する契約が結ばれ、同年12月22日には開発予算が認められた。これにより、研究段階に止まっていたドイツの装甲戦闘車輛開発が具体化に動き出した。設計責任者はヨーゼフ・フォルマー技師とされた。

開発にあたり、アメリカのホルト社(現在のキャタピラー社)のドイツ国内代理人であるヘール・シュタイナーがアドバイザーとして呼ばれた。またフォルマー技師の提案により、コスト低減と開発を急ぐためにブダペストライセンス生産されていたホルト社の農業用トラクターが購入された。研究はこれを分解調査するところから始まった。ホルトトラクターは先んじて戦車開発を行っていたイギリスやフランスも参考にしていたものであり、この車輌の構造そのままでは不整地走行能力が不足していたため、大型化とサスペンションの改良が行われた。

1917年1月に最初のプロトタイプが完成したが、機密を維持するために開発部門の頭文字を取った A7V がそのまま名称となった。これには、ヨーゼフ・フォルマー(Joseph Vollmer)からVの字が取られたとも言われている。1917年4月にはシャーシのみの状態で走行試験を開始した。

1917年5月14日にドイツ国内マインツ近くの演習場で木製のボディを被せた試作車輛のデモンストレーションを見学したドイツ軍最高司令部は、さらに10輌の追加生産を命じた。これら20輌の A7V でもって、2個戦車隊(各5輌)を編成して残る10輌は予備とすることを決定した。

生産型には尾部の砲は搭載されず、木製の試作車輛にあった尾部の超壕用ガイド(ルノー FT-17の尾部と同様)も取り付けられなかった。その後も繰り返しテストが行われたが、エンジンの出力不足や冷却などは根本的な解決に至らなかったようだ。

基本となる生産はベルリンのダイムラー社が行い、装甲板はエッセンクルップ社とステフェンス&ネーレ社、ギアボックスはフランクフルトアドラー社が担当した。最初の車体は1917年9月に完成し、武装なども施された車輌が納入されたのは1917年10月1日であった。1917年12月1日には、戦車型(Sturmpanzerwagen)10輌と、同じシャーシを利用した装甲のない兵員・弾薬輸送車型 (Uberlandwagen) 90輌の計100輌が発注された。これを1918年に予定されていた春季攻勢に間に合わせるように求められていたが、ダイムラー社の生産能力は月産5輌程度で、参謀本部もUボート飛行機の生産に資源や工業力を注力させていたため、休戦までに生産されたのは、戦車型が試作もあわせて22輌(524号車はA7V-Uの試作に流用されたため実際は21輌)、兵員・弾薬輸送車型が30輌程度にとどまった。
運用当時の戦車兵用マスク。車内に飛び込んできた弾片から顔面を保護するためのもの。

1917年10月には部隊配備が開始され、1918年2月27日には皇帝ヴィルヘルム2世の閲兵を受けた。

ホルト社が初期の実用履帯式トラクターを商品化してからまだ10年ほどであり、ヨーロッパに存在するほとんどのトラクターがホルト社またはホルト社のライセンスを受けて生産されたものであった。足回りは片側に計15個の小型転輪を並べたもので、これはホルトトラクターを参考にした戦車に共通する特徴である。これを5個で一組、両側で合計6組をそれぞれコイルスプリングで車体に取り付けた。しかし、実戦場では軟弱地での走行性能の低さが問題になった。

イギリスが戦車開発にあたり超壕性能(掘り下げられた壕を超える能力)や超堤性能(盛り上げられた段差を超える能力)を考慮し、ホルトトラクターの形式を採用せず、車体全周を覆う菱形の履帯配置に落ち着いたのに対して、A7V は履帯の接地長に対して車体のオーバーハングが長く最低地上高もわずか20 cmであった。そのため泥濘地や砲撃によって出来た窪地など複雑な地形を走行する能力が低かった。

本車は車体中央にエンジンを搭載し、その上に操縦席を設けている。エンジン一基では能力不足であったため、ダイムラー社の液冷直列4気筒100馬力ガソリンエンジンを二基搭載した。これは当時のドイツでは小型の200馬力エンジンとそれに耐える高速小型クラッチを製造出来なかったためであった。足回りは前述の農業用トラクターを参考に全長を延長したものが用いられた。ギアボックスは前進一段・後進一段で、エンジンは過負荷の影響を常に受けた。二基搭載された各エンジンが左右それぞれの履帯を動かしていたため操縦は難しかった。

車内には天井から、つり革代わりの先端を結んで玉にした荒縄がぶら下がっており、これは現在ムンスター戦車博物館にあるレプリカでも再現されている。

乗員は車長、操縦手、機関手、機関手兼信号手、主砲担当の砲員(砲手・装填手)、機関銃担当の銃手(射手6名・給弾手6名)と多く、合計18名であった。状況によってさらに多くの兵士が同乗する場合もあり、最大で26名が乗車した。独自兵科としての戦車部隊ではなかったため、乗員は砲兵部隊や歩兵部隊、自動車部隊などからそれぞれ融通された。

車輌同士の連絡は明滅信号で行われ、後方との連絡は伝令か軍鳩で行われた。連絡用の伝書鳩が配備された場合は鳩専門の世話係も乗車した。
武装ムンスターに展示される車両の主砲部

主砲はロシア軍から捕獲したベルギー製の海軍砲である、「マキシム・ノルデンフェルト 57 mm砲」(57 mm Maxim-Nordenfeldt gun)を採用し、これを砲郭式(ケースメイト式)に一門搭載した。

1914年の間に、ドイツ軍はこの砲を多数捕獲し、歩兵砲や車載砲として使用した。ドイツ軍はこの砲を、戦車の生産計画に組み込むことができるほど大量に捕獲していた。1916年には、この内の450門を運用していた。

この砲は、元々は、ベルギー戦争省のために、イギリスの「マキシム・ノルデンフェルト社」(Maxim-Nordenfelt Guns and Ammunition Company)によって、1887年に設計され、製造された。当初はリエージュナミュールのベルギーの要塞を武装するための、要塞砲として使用された。また歩兵砲としても使用されていた。

この砲は、鋼製の砲身長1.5 mの26口径の短砲身砲で、垂直鎖栓式の尾栓を備えていた。有効射程は2.7 kmで、57x224 R mm QF 固定弾薬(薬莢と弾頭が一体になった弾薬)の榴弾(HE)を発射することができた。砲弾の重量は2.7 kgであった。後座長が150 mmと短く、車載に適していたのと、野砲として陸上戦闘に使用した結果、当時のイギリス戦車を距離2,000 mで破壊できたために、車載砲として採用され、砲弾は500発が搭載された。

他にも、やはりロシア軍から捕獲したロシア製の26口径ソコル(Sokol)57 mm砲を搭載した車輌もあり、搭載砲の違いにより砲架と砲基部にバリエーションが見られる。


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