レコード会社のA&R部門は、新しいアーティストを見つけ、そのアーティストをレコード会社に引き入れる役割を担っている。A&R部門のスタッフは、ライブハウスや音楽フェスに新進気鋭のバンドの演奏を聴きに行き、才能を発掘することもある。A&R部門に所属する人材には、現在の市場の流行を理解し、商業的に成功するアーティストを見つけることが期待されている。そのため、A&Rには若年層が多く、A&R自身が音楽家、音楽ライター、音楽プロデューサーであることも少なくない[3]。
A&Rの幹部は原盤契約
(英語版)を提示する権限を持ち、それはしばしば「覚書」という、アーティストとレコード会社の間のビジネス関係を確立する短い非公式の文書の形で提供される[3]。実際の契約交渉は、アーティストのタレント・マネージャー(英語版)とレコード会社がそれぞれ雇った弁護士同士によって行われるのが一般的である。A&Rの幹部は、未承諾のデモテープよりも、信頼できる仲間や評論家、仕事上の人脈からの口コミに頼ることがほとんどである[4]。また、レコード会社の所在地と同じ都市で演奏しているバンドを好む傾向がある[4]。 レコード会社のA&R部門は、音楽の様式と原盤制作を統括している。アーティストが適切な音楽プロデューサーを見つける手助けをし、レコーディング・スタジオでの時間を調整し、高品質のレコーディングを行うためにあらゆる面でアーティストに助言する。A&Rは、アルバムを制作する上でレコーディングに最適な楽曲(すなわち、レパートリー)をアーティストとともに選択する。自ら曲を書かないアーティストの場合、A&Rは楽曲、作家、編曲家を探す手助けをする。A&Rは、レコーディングのためのスタジオ・ミュージシャンを手配することもある。A&Rの幹部は音楽出版社の担当者と連絡を取り合い、作家や音楽プロデューサーから新しい楽曲や資料を入手する。 原盤が完成に近づくと、A&Rはアーティストと密接に協力して、レコード会社がその原盤をアルバムとして発売することができるかどうかを判断する。この過程では、新しい楽曲を作る必要があるか、既存の楽曲に新しい編曲を加える必要があるか、あるいはアルバムの一部の楽曲をもう一度レコーディングする必要があるかを検討することもある。そのアルバムにシングル曲が含まれているかどうか、つまり、アルバム全体のプロモーションに使える特定の楽曲があるかどうかという点が鍵となってくる。 アルバムが完成すると、A&Rはマーケティング担当、プロモーション担当、アーティストおよびそのタレント・マネージャーと相談しながら、アルバムのプロモーションに使用するシングルを一曲ないしは数曲選ぶ。 音楽史の流れは、あるA&Rの好みに影響を受けてきた。A&Rのジョン・ハモンドは、ビリー・ホリデイ、ボブ・ディラン、アレサ・フランクリン、ブルース・スプリングスティーンなどを発掘した。ハモンドの同僚たちは、当初、これらのアーティストが「商業的な」音楽を作っているようには見えなかったので、懐疑的であった。ハモンドの直感は正しく、これらのアーティストはその後、何億枚ものアルバムを売るようになった[5]。ゲイリー・ガーシュ
原盤制作の統括
マーケティングおよびプロモーションの支援
来歴と影響
しかし、彼らの先見の明は、お決まりというよりもむしろ例外である。来歴の観点から見れば、A&Rの幹部は、最近の流行に適合し、その時点で成功しているアーティストに似た新しいアーティストと契約する傾向がある。例えば、1950年代のコロムビア・レコードのA&Rであったミッチ・ミラー(英語版)は、ガイ・ミッチェルやパティ・ペイジといった伝統的なポップス歌手を好み、初期のロックンローラーのエルヴィス・プレスリーやバディ・ホリーなどは敬遠していた。
この「流行追従」の考え方は、ティーン・ポップ(1998年から2001年)、オルタナティヴ・ロック(1993年から1996年)、グラム・メタル(1986年から1991年)、ディスコ(1976年から1978年)など、狭義のジャンルの波をいくつか生み出し、陳腐さを認識させることにつながった。流行の追従は、しばしば過剰な宣伝とその反動につながるため、逆効果になることもある(ディスコ・デモリッション・ナイトが一例)。また、レコード会社は、消費者の嗜好が変化する中で、流行が終わると莫大な損失をこうむることになる。例えば、1978年のディスコ・ブームの終わりには、何百万枚ものアルバムがレコード店から返品され、音楽業界は深刻な不況に陥った。1982年、マイケル・ジャクソンの『スリラー』によって大衆がレコード店に再び大挙して押し寄せるまで、この状況は続いた[8]。