99年の愛?JAPANESE_AMERICANS?
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TOYOTA Panasonic Special
TBS開局60周年 5夜連続特別企画
99年の愛
?JAPANESE AMERICANS?
ジャンル
テレビドラマ
脚本橋田壽賀子
演出福澤克雄
出演者草g剛
仲間由紀恵
松山ケンイチ
寺島咲
川島海荷
イモトアヤコ
大泉洋
初代市川右近
杉田かおる
中尾明慶
笹野高史
大杉漣
高畑淳子
泉ピン子
上條恒彦
小林稔侍
中井貴一
岸惠子
八千草薫
製作
プロデューサー瀬戸口克陽
制作TBS

放送
映像形式文字多重放送
番組連動データ放送
音声形式ステレオ放送
放送国・地域 日本
放送時間サブタイトルを参照
公式サイト

本放送
放送期間2010年11月3日 - 11月7日
回数5

二夜連続レジェンド
放送期間2011年12月26日12月27日
回数2
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『99年の愛 ?JAPANESE AMERICANS?』(きゅうじゅうきゅうねんのあい ジャパニーズ・アメリカンズ)は、TBSの開局60周年記念[注釈 1]として、TBS系2010年11月3日 - 11月7日まで5夜連続で放送されたテレビドラマ特別番組である。主演は草g剛仲間由紀恵

番組名に「TOYOTA Panasonic Special」と表記されているとおり、トヨタ自動車パナソニックの2社が特別協賛した。
解説

脚本を担当した橋田壽賀子は、戦時中に育ったためにアメリカ嫌いだったが、メジャーリーグ選手のイチローがアメリカ人に好印象を持っている点から取材を始めた[1]。実際第一夜の冒頭に、放送当時シアトル・マリナーズに在籍していたイチローの出場する試合をセーフコ・フィールドに見に行くシーンが登場する。以前にもこの作品と同様の移民をテーマにし、2005年に戦後60年とNHK放送開始80年記念ドラマとして放送された『ハルとナツ 届かなかった手紙』(昭和初期にブラジルに移住した日本人一家と一人日本に取り残された家族を描いた物語)を書いており、この作品はそのアメリカ版ともいえる。今回の作品を橋田自身の遺言だと語っている[2]

5夜連続共通の提供クレジットでは、最後のメッセージ「99年後に伝えたいもの」のテロップの後に、鉛筆書きで草g剛・書名の「愛」、仲間由紀恵・書名の「LOVE」で締めている。

また放送終了の翌年2011年の初頭には本作の舞台となったシアトルロサンゼルスで3日間にわたり本作の上映会が行われた。
あらすじ
プロローグ

2010年8月、アメリカワシントン州シアトルで平松農場を営む日系アメリカ人二世の平松次郎と義理姉のしのぶは、次郎と同じく日系二世で日本で暮らす妹・太田(旧姓:平松)さちと70年ぶりの再会を果たす。11歳の時に、姉のしづと共にアメリカから日本へ帰されたさちは、家族に捨てられたと思い込み、それ以来、アメリカに残った家族のことはないものとして生きてきた。

そんなさちのため、セーフコ・フィールド(現:T-モバイル・パーク)で開催されたシアトル・マリナーズで活躍するイチローの対オークランド・アスレチックスの試合を孫の直人と観にいくという名目で息子の嫁・景子が、野球のチケットを買い換えてまで、生き別れとなっていた兄義姉に連絡を取って引き合わせたのだ。景子はアメリカ・シアトルに到着してすぐに、息子がさちから聞いた平松農場の場所を手掛かりにして、二人に会えた。

しかし、球場内での最初の突然の再会では、さちは気が動転してしまったのか、「あたし、あなた達になんか会いたくない。アメリカへなんか二度と行きたいなんて思わなかった」と拒絶しその場を立ち去る。その夜の投宿先のホテルでは景子がさちに今日の事を詫びるも、さちを怒らせてしまう。しかし、さちはむしろ家族に会いたくなり、試合翌日の朝の投宿先のホテルで果たした二度目の再会ではさちが昨日の事を詫び、自身も同年1月に乳癌の手術で死と向き合った事もあり、思いっきり自分の気持ちを吐き出して、今まで抱えてきたものにけじめをつけたかった。これまでアメリカの家族の事を避けて生きてきたさちだったが、アメリカに残った家族がその後どんな生き方をしたのかを知りたかったのと同時に、自分が今までどんな思いで生きてきたのかを知ってもらいたいと考え始めた。なお、過去を忘れたかったが、恨みを話せば結局愚痴になるだけだと、さちは直人にアメリカで生まれた事を話していなかった。当日の3人の帰国予定を急遽取り止めて、さちの実家でもある平松農場に到着する。

そこで次郎から兄・一郎が第二次世界大戦で戦死した事を告げる。それでさちは次郎としのぶが結婚したのかと問いかけると、しのぶは一郎の妻であり、大事な兄嫁であると話す。景子も次郎・しのぶが夫婦じゃなかった事に驚く。一郎が戦死してから、次郎が家族を長年守ってくれた事を感謝するが、しのぶは次郎には申し訳ない事をしたと語る。一方、次郎はしづは元気かと問いかけると、さちから姉・しづが太平洋戦争における広島市への原子爆弾投下で被爆し、終戦して2年後の1947年夏に原爆の後遺症で亡くなった事を告げる。また次郎からは、日系一世である父親の平松長吉と母親の(旧姓:村上)ともが直人の曽祖父母に当たることと、次郎と直人の祖母であるさちが生まれた事を告げる。

こうして、投宿先のホテルまで会いに来てくれた次郎としのぶ、直人とは1歳年上でわざわざ日本から親戚が来ることを知り、柔道の稽古をサボってまで、早く農場に帰宅したしのぶの曾孫で日系五世のタクヤなど、そして彼らの家族にも会うことになる。
第一夜 アメリカ

大正元年(1912年)。当時の日本の農家は貧しく、大所帯の家族が多かった。続柄が次男以下の息子は長男とは違って家も田畑ももらえないため、出稼ぎのためアメリカなど海外へ移住する人も多かった。島根県奥出雲の貧しい自作農家・平松家の次男・長吉は家族の生活を助けるために近隣の知合いの野中一馬一家とともにシアトルの港に到着した。入管手続きを済ませ、15年前に先行移住して農場を営む野中の親戚である岡田勇の出迎えを待っていた。そんな中、野中の娘・初子が飲み物を買ってきて欲しいと頼まれ、ドルも所持していないにもかかわらず、長吉が飲み物屋に飲み物を買おうとするも、店員から「ジャップに売るものはない」と断られる。当時のシアトル周辺は反日感情が強く、この店の商品は日本人には売ってくれないという。その後、待ち切れずに岡田農場まで岡田を訪ねに荷馬車に相乗りさせてもらい、一先ず岡田との面会は叶ったが、成功話ばかりではなく、日露戦争で日本が勝利したことにより反日感情が強まり、さらに白人中心社会で起こり始めた黄禍論も相まって、現地での日本人の厳しい求人就職・生活状況をも思い知らされて困惑しながらも、長吉はその中で生きる覚悟を決めた。

直人は長吉が何も知らない国であるアメリカで一人ぼっちになるなんて惨めすぎると話す。しかし、長吉は一人で頑張る事を惨めで可哀想とは思わず、決して負けずに、自分の仕事を見つけてアメリカを生き抜いてきた、根性のある強い人間だった。他人の世話にはならず、自分の力で自分の人生を切り開いて行くのが日本人の良いところである。

翌日早いうちに岡田農場を後にした長吉は人使いが荒いと聞かされた広瀬が経営する缶詰工場で働き始めた後、一年後にはあちこちの農場で働いて回る季節労働者(ブランケ担ぎ)として賃金を稼ぎ、島根の平松家への送金を欠かさなかった。1919年、26歳になった長吉は農業を廃業してシアトルの街中でクリーニング店を営む野中から仕送りばかりしている先行きを案じられ、最後の機会になろうとしているピクチャーブライド写真花嫁)を世話する目的で呼び出して、長吉の一歳下の別嬪の写真を見せながらその気にさせるよう説き伏せた。その頃日本の岡山県新見の小作農の村上家では、当の本人が怖気づいたのと昔の男を追いかけて行って東京で働くこと決めてしまい、長吉のめかしこんだ姿の写真とともに送られてきた支度金や渡航費に手をつけてしまっていた父親は次女のともを説得して代わりに最後の写真花嫁らを乗せた船でシアトルに送り出し、長吉と出会った。それから間もなく、ふたりは野中や岡田ら日本人会の祝福を受けて結婚式を挙げ、晩餐の席上で大農場主となった岡田から長吉とも夫妻を雇い上げる申し出がなされた。それは、岡田農場の一角にある広大な荒地の開墾とその後の作付から収穫までの業務委託であった。二人が協力して苦難に立ち向かう姿は近隣に住む未亡人地主のキャサリン・グレッグの優しい目で見守られていた。彼らは隣近所の好みもあって、少ないながらも収穫の喜びを分かち合う仲にまでなる。

1922年6月、長吉らの長男誕生を聞き付けた野中や岡田は我が事のように喜んだ。それは、日系移民二世、米国籍を持つ市民の誕生ということであり、土地取引等に制限を受ける一世や帯同子女らには夢の実現といえた。キャサリンも長吉の長男誕生を訊き付けて自分の土地家屋を長吉に譲るというオファーが出される。しかし予てよりキャサリンと土地の売買交渉をしていたジェームスが長吉に売ることを聞かされて、敵意剥き出しで長吉夫妻に嫌がらせを仕掛け、遂にはキャサリンの思い出が詰まった家屋まで焼き払ってしまった。
第二夜 一世と二世

1940年、長吉・とも夫妻は長男の一郎に加えて次男の次郎、長女のしづ、次女のさちを設け、多くのアメリカ人も雇って自らの苗字を冠した農場を経営するまでになっていた。高校を修了した一郎は大学進学を希望しており、一方次郎は学校には余り興味はなく、農作業に夢中で雇われた農場作業員にも慕われていた。

シアトル大学に通うようになった一郎は日系移民初期から生じていた黄禍論に基いた嫌がらせを受けつつも、同じように通う日本からの留学生で外交官令嬢・松澤しのぶが大学構内で暴行を受ける寸前のところを救い、運命的な出会いを果たした。家業の農作業や酪農作業にも興味を示したしのぶは平松兄弟姉妹との触合いの中で、アメリカで暮らす日系人に同情の念ばかり持っていた自分の誤りに気づき、大地に強く根を張るように生きている平松一家に感じた力強さに感銘し、一郎との親密度を着実に深めた。そんなしのぶと一郎の動向を見ていた長吉がともとの会話で跡取り問題を持ち出して懸念を生じさせていた。だが、一郎は意を決してしのぶに両親と会ってほしい、松沢副領事にも挨拶したいとプロポーズをした。

その折、独軍の欧州諸国侵攻と日本陸軍のアジアでの英領仏領蘭領侵攻に対して米政府は独伊日の在米資産凍結を発令し、日系商社員の大半も帰国することになったと野中から状況を聞かされ、しのぶの父親である松沢副領事にも本省から帰国命令が出たということが長吉にも伝わり、一郎としのぶとの仲に見切りがついたと納得。更に市街の様子を見に野中を訪ねた長吉が見たのは昼日向の街中で一人歩きの日系女性へのあからさまな性的暴行未遂、長吉の目の前で野中が受けた嫌がらせ、港で投掛けられた蔑みの満ちた暴言などを受け、長吉はしづやさちを今のうちに日本に一時帰国させるべきという思いを高まらせた。

ある日、長吉がシアトルの港でアメリカ海軍の太平洋艦隊を目撃する。そこに男性からジャップのスパイかと問い詰められる。さらに、家族とともに帰日することを決めたしのぶに別れを告げた一郎は帰り道にしづの強姦未遂現場に出くわし、余計な心配を掛けないように皆には内密にと言い聞かせた。その際、しづは「アメリカにはジャップはいらない。日本人は人間じゃない」と言われて服を脱がされるなど、なぜ日本人が酷い目に遭わなくちゃいけないのかと泣く。しづは日本人がアメリカにいてはいけないのかと問うと、一郎はアメリカ人にとって日本人は余計者であり、アメリカにいる日本人はアメリカも日本からも守られないので、自分自身で守らなければならないという現実を話した。

さらに、夕食の席でも、アメリカ人のお店でも日本人は売ってくれず、学校の帰りに寄ったパン屋でも突然売ってくれないなど嫌がらせに辟易したさちの不平への共感を示したしづの態度に何かを感じた長吉は二人を日本に返すことを決めた。これは、日系移民として肌の色で差別されるなど、反日感情が激しくなっている現状では、女の子には無理だという判断だった。これは世界情勢が収まるまでの一時避難であり、日本に帰して、しばらく島根の実家に預かり、戦争が終わったらアメリカに戻すという考えだった。次郎は猛反対したが、一郎に止められ、しづの強姦未遂現場を目撃した事を告白した。

翌日、しづとさちを日本へ帰す時がやってきた。ともと別れを惜しむ中、長吉から山紫水明という四字熟語を教えられ、二人には日本で思いっきり楽しんで欲しいと願った。そして、12時発の最後の引揚船である氷川丸に乗船させた。そこには松沢副領事夫妻に付いて帰国するしのぶの姿もあったが、しづ、さちを見送りに来ていた一郎・次郎らには気づいてはいても振り返ることもなかった。また野中夫妻の息子の嫁と孫を日本へ帰していた。家族もすぐまたに会えると信じた。とも・しづ・さちは別れを惜しんだが、長吉の一喝で二人は乗船し、ともは波止場で見送らずに一人待合所で泣き暮れていた。しかし出港後、しのぶは船から海上に飛び降りて近くの浜へ泳ぎ着いた。

一晩掛けて遂に平松家に辿り着き、翌朝になって納屋で休み隠れていたところを一郎に見つかった。しのぶを一郎の嫁とは認められない長吉はひとまずは領事館に事情を伝え、農場作業員見習いとして平松家に置くことにした。農場の仕事をこなしていくしのぶの姿を見てはいたものの長吉の考え方は変わらず、増員された正規作業員程度にしか考えていなかった。一郎や次郎、ともは長吉の振る舞いに抗議し、クリスマスには婚約祝いをするという宣言をともから突き付けられた長吉は二の句が告げられないほどたじろいでいた。さちはしのぶの行方を心配していたが、そんなことになっていたことを70年後に初めて知った。

その頃、日本の奥出雲では、松澤夫人に付添われてしづとさちが長吉の兄・良助の下を訪ねていたが、長吉の実家では長吉の両親と兄夫婦に加え、兄夫婦の息子家族の大大所帯で生活が困窮しており、しづとさちの面倒を見れる状況ではなかったため、広島の酒屋に嫁いだ長妹・ふさがしづを、沖縄さとうきび畑の農家に嫁いだ次妹・ときがさちをそれぞれ引き取ることとなり、広島のしづの預かり先で離れ離れとなって、さちは那覇の預かり先へと連れて行かれた。さらに、手紙を出しても、日本宛・アメリカ宛はそれぞれの国の郵便局で受け付けてくれなかったので、アメリカにいる両親からの便りもなかった。この頃からしづとさちは家族に捨てられたと思い込むようになる。さらに、1941年12月7日に真珠湾攻撃のニュースが伝えられた際も、しづのいる広島、さちのいる那覇で聞かされた。太平洋戦争が勃発したのである。開戦をきっかけに、彼女たちは、周りの人達からそれぞれ「日系二世のアメリカ人」として白い目で見られ、学校でもいじめの標的にされる事態になる。

真珠湾攻撃をきっかけに日本人と日系アメリカ人の運命は大きく変わってしまった。シアトルでもラジオのニュースは引っ切りなしに真珠湾攻撃を伝え、日系人社会の大物となっていた岡田勇が自宅でFBIに拘束され、他にも日系人社会の思想信条の指導的立場にある上層部の人間が次々に拘束されたとの一報がもたらされた。日系人社会で重要な役割を担うようになっていた長吉は身辺整理のために書籍類を次々と焼却し、翌朝FBIに連行された。
第三夜 強制収容所

長吉がFBIに連行されて4日後の12日。100人もの日系人がFBIに連行されたことを知ったともは心労で体調を崩し床に伏せていた。一郎が街から戻ると、心ない落書き文字が書き殴られた外壁、割れた窓や倒された郵便箱を見ても何もできない無力感を覚えていた。日系人店は打壊を受け、日系人銀行は閉鎖の憂き目に遭い、歩いていたり外に出て来た日系人は暴行を受けるという街の様子を伝え、萎えた気力を何とか奮い立てて何としてでも生き抜く覚悟を示した。一方、那覇のときの家族に預けられていたさちも、地元の新聞で真珠湾攻撃のニュースを聞き、アメリカにいる家族はどうなっているのか心配していた。

日系アメリカ人会では大統領宛に日系二世の米国忠誠宣言を電報で伝えられたが、その年はクリスマスどころではなく、米西海岸地域への日本軍進攻の警戒もあって日系人の夜間外出禁止令や意図的停電が起こる中、翌1942年2月、大統領令は軍司令部に対して、太平洋沿岸地域(ワシントン州オレゴン州カリフォルニア州)とアリゾナ州を日本軍が攻めてくる可能性があるとして、軍事区域に指定されて、その地域の居住日系人の立ち退き命令を発することを任意に許可するとした。翌月、日系人協会主催の集会に参加した一郎・次郎・しのぶは米政府の決定した一週間以内の強制退去措置に代表者の山岸を相手に憤りを表したが、かと言ってどうすることもできず、集会を終えてから一郎は財産の保全管理の委託先を探すのに奔走したが誰にも相手にされなかった。強制退去前に長吉の残した全ての動産不動産が山岸の仲介によりジェームズに相場の二倍とは言え僅かな応札額で買い取られたことに一郎はともの前で詫びつつも悔しがり、日本と三国軍事同盟した独伊の移住者らには何故か同じ処遇を殆ど執らない米政府に怒りを向けた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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