95ヶ条の論題
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教会法による罰を転じて煉獄による罰とまでしているのはあの毒麦[注釈 4]によるものと思われる[7]

かつては、教会法による罰は、赦罪(アプソルティオ)[注釈 5]の後ではなく前に課さられていた[7]

死に臨む人たちは、死によってすべてを支払うのであり、教会法からは当然解放されている[7]

死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は必ず大きな恐れを伴う[7]

この恐れとおののきは、それだだけで煉獄の罰をなしている[9]

地獄、煉獄、天国の異なりは、救いのたしかさ(セクリタス)の異なりと同じように思われる[9]

煉獄にある魂にとって、おののきが減じられるに応じて愛が増し加えられる[9]

煉獄にある魂が、功徳や愛の状態の外に置かれているということは、聖書で証明されていない[9]

煉獄にある魂が、自分の救いについて確信し、安心しているということは証明されていない[9]

従って、教皇が全ての罪の完全赦免と言っても、ただ彼自身によって課された罪の赦免とだけ解される[9]

従って、教皇の贖宥[注釈 6]によって人間は全ての罪から赦免され、救われるというあの贖宥説教者たちは誤っている[11][注釈 7]。※

教皇は、煉獄にある魂に対して赦免することはできない[11]

もし全ての罪の赦免が誰かに与えられるならば、それはごく僅少な最も完全な人だけである[11]

つまり、大部分の人は罰の免除についてのけじめない約束によって欺かれたことになる[11]

教皇が一般的に煉獄に持っている権限は、どの司教も主任司祭も持っている[11]

教皇は代祷の方法によって魂の赦免を与えるのが至当である[11]

箱の中へ投げ込んだ金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がるという人たちは、人間を宣べ伝えている[注釈 8]のである[11]。※

金が箱の中でチャリンと鳴ると、利得と貪欲は増すが、教会のなすべきところではない[12]

煉獄で魂の全てが贖われることを願っているか知るよしもない[12]

自分の痛悔(コンチリサン)[注釈 9]が真実であるか、誰も確かではない。まして完全赦免を得たかどうかはなおさらである[12]

真に悔い改める者がまれであるように、真に贖宥を買う者もまれである[12]

贖宥状で自分たちの救いが確かであると信じる人たちは、その教師たちと共に、永遠の罪を定められるであろう[12]

教皇のするあのような贖宥は、人間を神と和解させる神の賜物であるという人を、警戒せよ[12]

なぜなら、あの贖宥の恵みは人間によって制定された償罪の罰にだけかかわるからである[12]

魂を煉獄から買い出し、あるいは、告解証を買おうとしてる者に、痛悔が不要であると教える人たちは、非キリスト教的なことを説いている[14]。※

真に痛悔したキリスト者なら、贖宥状がなくても、罪と罪責より完全赦免を持っている[14]

真のキリスト者なら、生死に関わらず、贖宥状がなくても、神が彼に与え給うたキリストと教会の宝に与っている[14]

しかし、教皇からくる赦免と伝達とは決して侮蔑してはならない。なぜなら神の赦免の宣言であるからである[14]

最も博学な神学者たちにとっても、贖宥の寛大さと痛悔の真実さを同時に褒めることは、最も困難である[14]。※

痛悔は罰を求め、これを愛する。しかし贖宥の寛大さは罰をゆるめ、これを憎むようにしむける[14]

使徒的贖宥[注釈 10]は、誤解されないように説かなければならない[15]

贖宥を買うことが、憐れみのわざに比肩するものだということは、教皇の考えではないことを、キリスト者は教えられなければならない[注釈 11][16]

貧者への施し、困窮者への貸与は、贖宥を買うよりも、より良い行いをしているのである[16]

なぜなら、愛のわざによって愛は成長し、人間はより良くなるが、贖宥によっては人間はより良くならず、ただ罰から自由となるに過ぎないからである[16]
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